中学生の頃の話。
当時は夏休みになると父方の祖父母の家に泊まりに行くのが恒例になっていた。
と言っても自分の家から祖父母の家までは自転車で20分もかからないような距離。
なので泊まりに行っている間も洋服や漫画など、その時必要な物を取りに家に帰る事も多かったし、もちろん学校の友達と遊ぶ約束がある度に家の近くまで帰っていた。
そんな状態だったので、よく母親には「それって泊まりに行く意味あるの?」と言われていたのを覚えている。
まあ、確かに他の人から見たら意味なんて無いように見えたかもしれない。
祖父母の家はとても古くて、それが気に入っていた。特に夜が好きだった。
外灯も車の音も、外を歩く人間も少ない。縁側に座って、いつもより少しだけよく見える(ような気がする)夜空を見上げながら、虫の声や風の音を聞いて過ごすのが日課だった。
偶に祖父が買ってくる花火をやったりもした。
※
そんな風に祖父母の家で毎日のんびりと夜を満喫する日々が続いていたある日のことだ。
畑仕事に疲れしまったらしく「ちゃんと戸締まりはするんだよ」と言って先に寝てしまった祖父母をよそに、自分はいつも通り縁側に座りながら外をぼーっと眺めていた。
『そう言えば宿題まだ終わってないのあるな』とか、『スイカ食べたい』とか、そんなことを考えていたと思う。
暫くして視界の右端に映る白いものに気付く。
なんだろうと思いそちらに視線を向けると、生け垣の外に白い服を着た髪の長い女が立っていた。
反対側を向いているので顔は見えない。
こんな時間にどうしたんだろう。道に迷ってしまったのだろうか。声を掛けるべきなのか。
そう考えている内に、女はいつの間にか歩き出してどこかに行ってしまった。
特に気にも留めなかったし、数日後にはその女のことなんてすっかり忘れてしまっていた。
※
夏休みも終わりに近付いた日、祖父母は隣の家(と言っても50メートルくらい先)にカラオケをしに行ってしまった。
自分も誘われたのだが、カラオケと言ってもお店にあるのとは違い、曲数も少なければ知っている曲なんて殆ど無い。
せいぜい歌えて『川の流れのように』くらいだろう。カラオケで用意されるであろうお寿司は少々魅力的だったが、一人で留守番をする気楽さの方が上だった。
カラオケに行く前に祖母が作ってくれたおにぎりを夕飯に食べた後、暫くテレビを見てから縁側に向かう。
お盆の上には麦茶と煎餅を乗せてのんびりと過ごす準備も完璧だった。
『祖父母は今頃楽しくやっているだろうか』、『やはりお寿司は食べたいので貰って帰って来たりしないだろうか』などと少々食い意地の張ったことを考えながら、縁側でまたぼーっとする。
※
ふと、風に起こされた。
いつの間に寝てしまったのか、どれくらい寝てしまっていたのかは分からない。
どうやらまだ祖父母は帰って来ていないようだった。
先程用意した麦茶のコップが倒れ、中身がこぼれているのに気付く。寝ている間に自分で倒してしまったらしい。
麦茶は勿体無いし雑巾を取りに行くのは面倒だし、気分は最悪だ。
だがそのまま麦茶が乾くのを待っている訳にもいかないので、仕方なく台所から雑巾を見つけると素早く拭き始めた。
一通り拭き終わり、顔を上げた時だった。
生け垣の外にまたあの女が立っていた。
多分、前に見た時よりも位置が少しだけ左側に移動していた気がする。
やはり反対側を向いているので顔は見えない。
正直心底吃驚した。いつからそこに立っていたんだろう。
今来たのだろうか? それとも雑巾を取りに行っている時? 起きた時? 寝ている時?
それとも…。
この間のようにすぐにどこかへ歩いて行ってしまうだろうと思っていたのだが、女はそこを動こうとはしない。
さすがに少々気味が悪かったのだが、それでも女に声を掛けた。元々幽霊や妖怪などの類なんて信じていなかったし、それにあまりにもハッキリと見えていたせいなのか怖くなかった。
「あのー…どうかましたかー?」
返事は無い。相変わらず女は反対側を向いたまま、ただ立っているだけだった。
もしかしたら自分と同じで夜空を見ているのかも。虫の声や風の音を聞くために散歩をしている途中なのかもしれないなんて考えながら、女にまた声を掛けてみる。
「散歩ですか? 月も綺麗だし夜風も気持ちいいですねー」
やはり返事は無かった。
折角人が心配して話し掛けているのに無視するなんて失礼な女だな…と心の中で毒を吐く。
すると、ブツブツと何か呟いているような声が聞こえてきた。その声はとても小さくて聞き取れない。
自分へ向かって話しているのか、ただの独り言なのかも分からなかった。
※
何を呟いているのか気になった自分は、女に近付くためにいつも縁側に置いてある祖父のサンダルを履いて庭に降りる。
縁側から生け垣までは6~7メートルくらいだったと思う。
そこで改めて女の方を見てみると、僅かにだが左右に揺れていることに気付いた。
「すみませーん?」
ブツブツ呟きながら左右に揺れているなんて、ちょっとやばい人なのかもと思いながらまた声を掛ける。もしそうなら祖父母に連絡しなければ…。
声を掛けながら一歩一歩近付く度に、なぜか女の揺れ幅が少しずつ大きくなっていく。
ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら…。
ああ、この人本当にやばいかも。目の前で揺れる女を見ながらそう思った。
そう思ったのに、それでも女に声を掛けることも近付くことも止めなかった。
多分、怖いもの見たさだったんだと思う。
「…うっ………」
でも、それをすぐに後悔する。
女は反対側なんて向いていなかった。
ずっと自分の方を向いていた。
ゆらゆらと大きく左右に揺れる度に、髪の毛も一緒に揺れている。
その隙間から鼻が、口が、そして目が覗いていた。
あと1メートルくらいという所まで近付き、初めてそれに気付いたのだ。
恐怖で体が動かない。すぐにでも逃げたいのに助けを呼びたいのにできない。
ずっと揺れ続ける女と目が合ったまま、ただそこに立ち尽くしていた。
女はやはり何か呟いている。でも聞き取れない。すぐ目の前にいるのに…。
いつの間にか女の揺れがまた大きくなっていた。
それは「ゆらゆら」ではなく「ぐらぐら」と表現するのが正しいだろう。
女が手生け垣の上から手を伸ばしてきた。
怖い。捕まる。
※
「お寿司貰ってきたよー」
ああ、もうダメだと思った瞬間、玄関の方から聞き慣れた祖母の声。
不思議と体が自由に動かせるようになり、目の前の女から逃げなければと慌てて家の方へと体を向けると、すぐに寿司の入ったタッパを持った祖母が顔を覗かせた。
「やっぱりここに居たのけぇ、アンタ本当に好きだねぇ」
「ばあちゃん…今…女の人が……」
女の居た方向を指差すが、もう誰も居ない。ガタガタと震えながら、今見たことを祖母と祖父に話をした。
「それは垣根さんだろう」
話を聞き終えた祖父が、俺が見た女のことを教えてくれた。
女は「垣根さん」と呼ばれており、どうやら昔からここら辺の土地に出る妖怪のようなものらしい。
名前の通り、垣根の向こうからただこちらを見ているだけで特に害は無いのだという。
あんなに怖い思いをしたのに害は無いなんて、自分にはとても信じられなかった。
※
翌日、自分があまりにも怖がっていたので、祖父がOさんという方の家へと連れて行ってくれた。
薄暗い鏡だけが置いてある部屋に通され、そこで多分お祓いのようなものをしてもらった。
Oさんはとてもにこやかな人で、自慢の牛乳寒天をご馳走になり、最後にはお札を貰って帰った。
祖父母やOさんに「大丈夫」と言ってもらったが、自分はまだ怖くて仕方なかった。
本当はあと数日は祖父母の家でのんびり過ごす予定だったのに、その日の内に帰宅してしまった。
夜が好きだった。
祖父母の家で過ごす夜が好きだった。
でも今はもう怖い。
あれから10年以上経っているが、自分は怖くて祖父母の家にあまり近付けなかった。
正月とかお盆とか、どうしても行かなければならない場合は昼間にだけ行くようにしていた。
だって夜は怖いから。またあの女が現れるんじゃないかと思っていたから…。
※
数ヶ月前、祖父が死んだ。
その為、家族全員で祖父の家に泊まり、夜伽をすることになった。
怖いからできませんなんて言うつもりもなかったし、もう10年以上前の話なので、怖いという気持ちも無くなっていた。
寧ろあの一件以来、祖父母の家に来ることが少なくなり、顔すらあまり合わせていなかったことを後悔していた。
もっと、もっと祖父と話したかったと思った。
祖父の枕元で父親に思っていることを話した。懺悔のつもりだった。
父親は「なんの話だ?」と変な顔をして聞いてきた。
時間はもうすぐ午前0時を回ろうとしている。
ここで思い出したのだが、あの日帰る時に祖父とOさんに「このことは誰にも言ってはいけないよ」と言われていたので、親にも友達にも、誰にもあの女の話をしていなかった。
早く忘れたかったのもあるし、敢えて他の人に話そうなんて思っていなかったけど。
※
10年以上経って初めて父親にあの女の話をした。
Oさんにお祓いをしてもらい、お札を手渡されたことも話した。
父親の顔がみるみる青くなるのが解った。
話し終わる頃にはもう真っ青で「なんで言わなかった!どうしてだ!?」と怒鳴られる。
その怒鳴り声に隣の部屋で寝ていた母親と弟と祖母も起きてしまい、心配そうに顔を覗かせた。
自分も、母親も弟も祖母も、父親以外はもう訳が解らなくてオロオロとするだけだ。
「お前は朝になるまで絶対に部屋から出るな。トイレにもいくなよ!絶対だ!」
そう言い残して父親は部屋から出て行ってしまった。
訳が解らないまま残された家族に、自分はもう一度、父親に話したことを聞かせた。
祖母はあの時のことを覚えていたようで、「ああ」とか相槌を打っていた。
※
暫くして父親がTさん、Kさんを連れて戻って来た。
TさんとKさんは父親の幼なじみの親友で、日頃から家族ぐるみでキャンプに行ったりと、よく知っている人達だ。
二人とも父親と同じように青い顔をしているのが解った。
「大丈夫だ。取り敢えず朝まで乗り切ろう」
「親父にはもう連絡してある。朝になったらすぐ来いって」
「こんな夜中に悪いな。TにもKにも、Tの親父さんにも本当に感謝しているよ」
ますます訳が解らなかった。一体何をそんなに慌てているのか。
3人はあっと言う間に部屋にお札を貼り、四つ角には盛り塩まで置いてある。
とうとうTさんは俺の正面に座ると、何かお経のようなものを唱え始めた。
正直異常だった。何が起こっているのか理解できない。
自分だけじゃない。母親も弟も祖母も、ただ呆然と父親達の行動を見ているだけだった。
そんな状態が朝まで続いた。もちろん一睡もできなかった。
本当なら自分も朝から祖父の通夜の準備を手伝うはずだったのだが、Tさんの家へ行くことになった。
ろくな説明を受けていなかったのだが、それでも父親やTさんKさんの様子から察するに、大変なことになっているんだろうと思い3人の言う通りにした。
※
Tさんの家に着くと、Tさんの親父さんが支度をして待っていた。
ちなみにTさんの家は神社で、そんな大きなものではないが、まあ有名らしい。
奥にある部屋に通され、そこでお祓いが始まった。眠気のせいなのか内容はあまり覚えていない。
覚えているのはTさんの親父さんの真剣な顔と、父親とTさんとKさんの必死に祈る顔だけだ。
お祓いが終わって部屋の外に出たのは、もう昼近くになってからだった。
父親はTさんの親父さん達にお礼を言うと、急いで祖父の家へと帰って行った。
俺も一緒にと思ったのだが「お前は当分あの家には来るな」と言われてしまい、祖父のお通夜に参加することも出来ず、その日はそのままTさんの家にお世話になることになった。
※
こんなことになったのに詳しい説明は誰からもしてもらえず、実は今でもあれが何だったのか自分でもよく解っていない。
だけど一応Tさんの親父さんが少しだけ話してくれたことがあるので、それを書いておく。
・本来垣根さんと言う呼び名ではない
・ただ見ているだけの無害な存在ではない
・昔、垣根さんに生け贄を差し出す風習が存在した
もしかしたら、もっと詳しいことを聞けるのかもしれない。
だけど自分には聞く気になれなかった。