
それは、まだ母が幼かった頃のことです。
当時、母は家族とともに、ある団地に暮らしていました。
その団地で体験した、今も語り継がれる奇妙な出来事があります。
※
ある日、母と母の姉──つまり私の伯母が、外に遊びに行こうと団地の階段を降りていました。
ちょうど一階の団地入口あたりに、見知らぬ女の人が立っていたそうです。
団地の一階には、郵便受けが並んだ壁の向かいに共用の手洗い場がありました。
その女の人は、そこで何かを洗っていたようでした。
しかし、様子がどこか異様でした。
※
そのおばさんは、紺色のモンペを履いていました。
当時でも、モンペ姿の人なんてほとんど見かけない時代でした。
なにより、彼女の雰囲気はどこか時代から浮いており、母たちが挨拶をしても一切反応を返さず、
まるでそこに存在しない者のように、視線も動かさず、ただ黙々と水を流しているだけでした。
※
その場を離れたくなった母と伯母は、おばさんの後ろをそっとすり抜けて、外へ出ようとしました。
すると、その瞬間。
その女が、低く無愛想な声でこう言ったのです。
「もどれ」
※
二人はぎょっとして動きを止めました。
すると、母はふと、もう一つの異変に気づきました。
ついさっきまで、開いていた部屋のドアから聞こえていたはずの生活音──
テレビの音、子供の声、足音、食器の音──
それらが、一切聞こえなくなっていたのです。
まるで、団地全体が空っぽになったように、静まり返っていました。
※
一瞬、時間が止まったような、重苦しい沈黙が流れました。
そして次の瞬間──
「もどれ!!!!」
その女が、怒鳴りつけるような声で叫びました。
それは子供の心に突き刺さるような、異常な迫力のある声だったといいます。
母と伯母は声も出せず、ただ手をぎゅっと握り合って、階段を一気に駆け上がりました。
※
その間、見えていたはずの他の住戸のドアはすべて閉まっていて、
あれほどにぎやかだった団地の空気は、完全に音を失っていました。
やっとの思いで自宅の四階に戻り、ドアを開けたとき──
家の中には何の異変もなく、いつもの空気が流れていたそうです。
家族も、普通に過ごしていました。
※
けれど、その体験があまりに不気味で恐ろしく、母も伯母も長い間この話を誰にも話さなかったといいます。
実際にその場にいた二人だけが、はっきりと覚えているのです。
※
私が幼かった頃、母はこの話をふと思い出したように語ってくれました。
そして何度も、こう言っていたのです。
「もし、異次元に入ってしまったら──とにかく元いた場所に戻りなさい。いい?“戻る”ってことが、いちばん大事なのよ」
※
あのときの「もどれ」という言葉は、警告だったのか。
それとも、引き込もうとした声だったのか──
今となっては分かりません。
でも、あの日の団地の階段にいた“あの女”は、
確かに、母と伯母に「見えていた」のです。
そしてその記憶は、今も母から私へと受け継がれています。