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もどれ

もどれと言った女性

それは、まだ母が幼かった頃のことです。

当時、母は家族とともに、ある団地に暮らしていました。

その団地で体験した、今も語り継がれる奇妙な出来事があります。

ある日、母と母の姉──つまり私の伯母が、外に遊びに行こうと団地の階段を降りていました。

ちょうど一階の団地入口あたりに、見知らぬ女の人が立っていたそうです。

団地の一階には、郵便受けが並んだ壁の向かいに共用の手洗い場がありました。

その女の人は、そこで何かを洗っていたようでした。

しかし、様子がどこか異様でした。

そのおばさんは、紺色のモンペを履いていました。

当時でも、モンペ姿の人なんてほとんど見かけない時代でした。

なにより、彼女の雰囲気はどこか時代から浮いており、母たちが挨拶をしても一切反応を返さず、

まるでそこに存在しない者のように、視線も動かさず、ただ黙々と水を流しているだけでした。

その場を離れたくなった母と伯母は、おばさんの後ろをそっとすり抜けて、外へ出ようとしました。

すると、その瞬間。

その女が、低く無愛想な声でこう言ったのです。

「もどれ」

二人はぎょっとして動きを止めました。

すると、母はふと、もう一つの異変に気づきました。

ついさっきまで、開いていた部屋のドアから聞こえていたはずの生活音──

テレビの音、子供の声、足音、食器の音──

それらが、一切聞こえなくなっていたのです。

まるで、団地全体が空っぽになったように、静まり返っていました。

一瞬、時間が止まったような、重苦しい沈黙が流れました。

そして次の瞬間──

「もどれ!!!!」

その女が、怒鳴りつけるような声で叫びました。

それは子供の心に突き刺さるような、異常な迫力のある声だったといいます。

母と伯母は声も出せず、ただ手をぎゅっと握り合って、階段を一気に駆け上がりました。

その間、見えていたはずの他の住戸のドアはすべて閉まっていて、

あれほどにぎやかだった団地の空気は、完全に音を失っていました。

やっとの思いで自宅の四階に戻り、ドアを開けたとき──

家の中には何の異変もなく、いつもの空気が流れていたそうです。

家族も、普通に過ごしていました。

けれど、その体験があまりに不気味で恐ろしく、母も伯母も長い間この話を誰にも話さなかったといいます。

実際にその場にいた二人だけが、はっきりと覚えているのです。

私が幼かった頃、母はこの話をふと思い出したように語ってくれました。

そして何度も、こう言っていたのです。

「もし、異次元に入ってしまったら──とにかく元いた場所に戻りなさい。いい?“戻る”ってことが、いちばん大事なのよ」

あのときの「もどれ」という言葉は、警告だったのか。

それとも、引き込もうとした声だったのか──

今となっては分かりません。

でも、あの日の団地の階段にいた“あの女”は、

確かに、母と伯母に「見えていた」のです。

そしてその記憶は、今も母から私へと受け継がれています。

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