
僕が小学6年生だったときのことです。
当時、僕は吉祥寺にある塾に通っていました。
自宅は隣の○○区にあり、毎回バスで吉祥寺まで通っていました。
その日も、いつものように塾へ向かうため、バスに乗りました。
※
乗ったバスは空いていて、すぐに座ることができました。
しかし途中から混み始め、ふと顔を上げると、目の前にはひとりのお爺さんが立っていました。
スーツをきっちりと着こなし、ハットを被ったその姿は、どこか岡田真澄を思わせるような品のある佇まいでした。
僕は思わず席を譲ろうと立ち上がり、
「どうぞ」
と声をかけました。
お爺さんは微笑みながら、
「ありがとう」
と答えてくれました。
※
当時の僕は幼くて、失礼ながら『顔がしわしわだな』『マジシャンみたいな人だな』などと心の中で思っていました。
するとそのお爺さんが、にこやかに話しかけてきました。
「君は優しいね」
僕たちは自然と会話を始め、いつの間にか、初対面とは思えないほど普通に話していました。
話題は塾のことや成績のこと。世間話にすぎなかったはずなのに、どこか居心地の良い時間が流れていました。
ふと僕は思い出し、両親に言われていたことを口にしました。
「知らない人と話しちゃいけないって、言われてるんです」
するとお爺さんは、クスッと笑いながら、
「こんな爺に誘拐なんてできると思うかい?」
と返しました。
僕は自然と首を振ってしまいました。
※
まもなくバスは吉祥寺駅に到着。
終点に近づいたころ、僕はどうしても気になっていた質問をしました。
「マジシャンなんですか?」
お爺さんはしばらく笑っていましたが、バスが停まると同時に人差し指を立てて言いました。
「でもね、“これ”ならできるよ」
『これって何だろう?』と僕が不思議に思った瞬間、気がつけば他の乗客は全員バスを降りており、車内には僕とお爺さんだけ。
僕は急いでバスを降りました。
そのとき──
目の前に、信じられない光景が広がったのです。
※
赤い世界。
一瞬、目の前に強烈な赤い光が差し込み、思わず目をつぶりました。
驚いて目を開けると──人がいない。
誰もいない。
バスも、通行人も、車も消えていた。
街全体が、不気味な赤い光に包まれていました。
それは夕焼けのような赤ではありません。すべての色が赤のフィルターを通したかのように歪み、異様な世界が広がっていたのです。
※
僕は恐怖で全身が震えました。
吉祥寺の駅前ロータリー。いつもならスケボーをしているお兄さんや、にぎやかな人の声がするはずなのに──音ひとつ聞こえない。
まるで時間が止まったような静寂の中、僕は泣きながら走りました。
でも、どこまで走っても、誰もいない。
ただただ、真っ赤な世界。
僕は道端にしゃがみこみ、声を上げて泣きました。
※
そのとき──
目の前に、あのしわしわのお爺さんが現れたのです。
僕は必死に叫びました。
「戻して! 早く戻して!」
お爺さんは驚いたような顔をして、そして静かに僕の頭を撫でました。
「ごめんね」
「怖がるとは思わなかったよ。ごめんね、ごめんね」
その言葉を何度も繰り返しながら──
※
次の瞬間、街の喧騒が戻ってきました。
僕が顔を上げると、いつもの駅前。人々の声、車の音、すべてが元通りになっていました。
ただ僕は、横断歩道の真ん中でしゃがんで泣いていたため、通行人からは奇異の目で見られていました。
周囲には人だかりができていました。
でも──
あの赤い世界に連れていったお爺さんの姿は、どこにもありませんでした。
※
あれは夢だったのでしょうか?
でも、あのときの景色、赤い空間、そしてお爺さんの手の温もり──
すべてが、今でも鮮明に思い出せます。
「これならできるぞ」
彼のその言葉は、いまだに僕の胸に焼きついています。
あのとき、彼が見せた“マジック”が何だったのか──
今でも、僕にはわかりません。