一月の終わり、山守りのハルさんは、山の見廻りを終えて山を下っていた。
左側の谷から、強烈な北風に舞い上がった粉雪が吹き付けてくる。
ちょっとした吹雪のような、『もどり雪』だった。
※
雪煙の向こうに人影が見えた。
道端にある山土場に佇んで、谷の方を向いている。
ヒュゥゥゥ―と唸る風の音をついて、何事か話す声が聞こえてきた。
その人影が誰かと話をしているようだが、相手の姿が見えない。
近付くにつれ、影の正体が判明した。同じ在所の源さんだ。
「おぉい!そんな所で何やってるんだ?」
ハルさんが声を掛けると、源さんはゆっくりとこちらに向き直った。
ゴツゴツとした厳つい顔が、今は少し強ばっているように見える。
「……何だ、ハルさんか」
「何だとは何だ。それよりお前、誰かと喋っていたようだが」
「ああ、ちょっとな。翔太と話をしていたんだ…」
「何だって?」
ハルさんは、しばし呆気に取られた。
翔太というのは源さんの一人息子だが、先年の春、7才になる前に小児ガンでこの世を去っているのだ。
※
翔太が死んでからの源さんの様子には、一見何の変化も無かった。
元来、黙して語らずといった雰囲気の持ち主だったし、寄り合いの席などでむっつりと押し黙っているのも、以前と変わり無い。
悲嘆に暮れているような姿も、ついぞ見せたことが無かった。
翔太の葬式の時など、俯き加減で泣き続ける細君を尻目に、居並ぶ参列者を仇でも見るような目つきで睨み付けていた。
そんな源さんの立ち振る舞いを見て、ハルさんの心中に去来したのは、意地を張っているんだろうなあ…という思いだった。
多分そうすることで、悲しみを無理やり押さえ込んでいたのだろう。
あれから9ヶ月余り。今日までずっと、源さんは意地を張り続けている…。
※
「…歩いてたらさ、土場に差し掛かった辺りで誰かに呼ばれたような気がして。
で、そっちを向くと、すぐそこに翔太が立っていたんだ」
ハルさんは無言で源さんの独白に耳を傾けた。
いつの間にか風は止んでいて、周囲の山は時が止まったかのように静まり返っている。
「翔太のヤツ、『お母さんをいじめちゃだめだよ』なぁんて言うんだ。
そりゃあ俺も、翔太のことではアレを随分叱ったからな。
『いつまで泣いているんだ、泣いてどうなるものでもないだろう』なんてな」
そのことは、妻を通じてハルさんの耳にも届いていた。
田舎の井戸端ネットワークは全く侮れない。
「悪いとは思ったけど止められなかったんだ。そうやって気力を奮い立たせてたんだな。
いや、逃げていたのかもしれない。
で、気が付いたら会話が無くなってた」
源さんは顔を空に向けて語り続けた。何時になく口数が多い。
「あいつはそれが心配だったんだとさ。久しぶりに会った我が子に説教されるとはなぁ。
まったく、腹が立つやら情けないやら……なんだかなぁ………けどよ…」
そこで一旦口籠もり、そのまま空を振り仰いだまま立つ尽くす。
「…けどよハルさん。何でかなぁ…涙が止まらねえんだよ」
上を向いた目からジュワッと涙が溢れ出し、頬を伝って零れ落ちたかと思うと、源さんはそのまま、
「オォォォォォ…!」
と声を張り上げて泣き出した。
我慢に我慢を重ね、意地を張り通して来た源さんの号泣は容易には止まらず、後から後から零れ落ちる大粒の涙が、雪面にポタタタタ…と穴を穿つ。
そのすぐ向こう、真っ新な雪の上にポツリと一組だけ、小さな子供の足跡があった。
※
やがて再び勢いを増した風が激しく雪を舞い散らすと、足跡はあっという間に掻き消されてしまった。
しかし、それは源さんの心の内に消えることなく焼き付いたのだろう。
山を下りた源さんの厳つい顔は、近頃になく晴れやかだった。
もどり雪が、ほんの少しだけ時を戻してくれたのかもしれない。