八月初旬。
夜中に我が家の次男坊(15歳)がリビングでいきなり歌い出し、私も主人も長男(17歳)もびっくりして飛び起きました。
主人が「コラ!夜中だぞ!!」と言い、電気を点けました。
マンション住まいなもので、深夜の騒音は大迷惑になってしまいます。
長男も次男も小学生の頃から和太鼓をやっているのですが、その時の次男は、舞台で着る藍染の腹掛けと股引きをした格好。頭にはちゃんと鉢巻を巻き、ご丁寧に地下足袋まで履いていました。
歌っていたのは、三宅島に伝わる『木遣り歌』です。
『三宅木遣り太鼓』は、三宅島のオリジナルにアレンジが加わった形で、和太鼓の曲として広く伝わるスタンダートです。
次男の所属するチームでは、『三宅』を叩く前に『木遣り』を歌うことがあるのです。
次男は、主人と長男で取り押さえようとしても構わず歌い続け、主人が口を塞いでもまだもがもがやっています。
寝ぼけているのかと思い、名前を呼んだり揺すったりしてもダメ。
「ダメだ、取り敢えず外に出そう」と、次男にタオルで猿轡をし、主人と長男が引き摺ってエレベーターに乗り、駐車場へ走りました。
※
車に乗り込んでも次男はまだ歌い続けていましたが、急いで車を出しました。
騒音を気にしなくて良くなったことに取り敢えずはホッとして、猿轡を解きました。
成り行き上、ハンドルを握っていたのは私でした。
ミニバンのセカンドシートに、長身の男が三人もぎゅうぎゅうに収まって…。
あたふたと夜逃げのように飛び出て来てしまったので、私はパジャマ、主人と長男はTシャツにトランクス一丁。
どこへ行けば良いのか、どうすれば良いのか、何が原因なのか、思い付く限りの意見を出し合った末、主人が言いました。
「病院だな…。M(長男)、夜中も行ける精神科を検索してくれ」
『精神科』という言葉に、少しドキッとしました。
「携帯持って来なかった…」「俺も…」「私も…」
「取り敢えず携帯と着替えを取りに帰るぞ。俺らは下で待ってるから、Mは家へ走って取って来い」
主人の言葉に長男もそれしかないと観念し、
「家まで誰にも会いませんように…」
と呟きました。
その時、主人がぼそっと言いました。
「こいつ、いつからこんな良い声が出るようになった?」
私は次男の異常な様子が心配で、ただオロオロしていましたが、主人に言われてよく聞いてみると、本当に心に染み入って来るような声でした。
確かに次男の声なのですが、何と言うか…伸びだとか節回しが急に上手くなっている感じでした。
それからも暫く歌い続けていましたが、不意に次男の歌が止みました。
「R(次男)!?」
名前を呼んでみましたが無反応。
きりっとした顔のまま、正面を見据えています。
かと思ったら、すっと自分の手を見て、握ったり開いたりし始めました。
「バチ!これから打つんだ!」
長男が叫びました。
「バチも持って来よう!」
みんな口には出しませんでしたが、何か科学で説明出来ない事態が起こっていると、この辺りから感じていました。
主人「M、塩も持って来い」
長男「塩…どうするか知ってんの?」
主人「かけたら良いんじゃないか?」
長男「まじかよ…」
主人「コンビニで線香も買おう」
長男「コンビニで売ってんの?」
沈黙…。
物凄い不安で張り裂けそうでした。
※
マンション前に着き、長男が意を決したようにTシャツにトランクスの格好で走って行きました。
その後ろ姿に、緊急事態の真っ只中だというのに主人がゲラゲラ笑い出し、私もつられて笑いました。
「よく考えたら滅茶苦茶笑えるな、これ(笑)」
Tシャツにトランクス姿の父と長男が、ばっちり衣装の次男に猿轡を噛ませて引き摺り、付き添うパジャマの母。
「物凄く怪しい家族だぜ(笑)」
笑いが止まらなくなってしまいました。
すると、それまで険しかった次男の表情が、少し柔らかくなった気がしました。
主人は、
「大丈夫。とにかく今は深夜だし、朝になったら考えたらいい」
と、何か達観したような様子でした。
もちろん不安で一杯でした。
このまま本来の次男が戻って来なかったら…と思うと、こちらの方がおかしくなりそうでした。
それでも一瞬和ませてくれた主人に、とても感謝しました。
※
暫くして、長男が荷物を持って戻って来ました。
「まだバチ出すなよ。ここでやられたら殴られる」
主人がジーンズを穿きながら言いました。
私は助手席に移動し、主人の運転で再び走り出しました。
「Rの部屋に入ったら、Tシャツを綺麗に畳んで置いてあったよ。有り得ねぇ」
長男はそう言いながら、携帯で塩の使い方を調べていた。
※
思い掛けず久しぶりに家族でドライブとなりましたが、ある国立公園に辿り着きました。
我が家からは30分ほど山を登った所にあり、ちょっと名の知れた滝や、秋は紅葉目当てで観光客がやって来る自然の中です。
もちろんそんな深夜ですから、駐車場に他の車はありません。
まずは主人と私が車を降り、次男も長男が促すと降りて来ました。
長男が次男に持って来たバチを渡し、自分もバチを持ち、滝の音がゴウゴウと遠くから聞こえる方を向いて立ちました。
※
まず長男が歌い出しました。それに次男が被せるように追い掛けます。
歌い終わると長男はすっと座り、次男は腰を低くして構えます。
『三宅』は太鼓を真横に置いて、両側から低い姿勢で打つのです。
長男の地打ち(ベース)が始まり、次男がゆっくりと振り被り打ち下ろす。
もちろん太鼓はありませんが、ドーンという響きを感じたような気がしました。
段々とペースが上がり、お互いに掛け声をかけながらエア太鼓は続きます。
長男と次男の『三宅』を初めて見た訳ではないし、所構わず始める次男の素振りは、それこそしょっちゅう見ているのに、何故か涙が止まりませんでした。
多分、次男の中の人にとっては、最後の『三宅』だと感じていたからだと思います。
※
ようやく打ち終わり、二人が立ち上がりました。
次男はまず長男に、そしてこちらを向いて深々と頭を下げました。
顔には涙がぽろぽろと落ちていました。
暫く泣いて、やがて
「兄ちゃん」
と言いました。
「Rか?」
と聞くと、泣きながらも頷きます。
心底ほっとしました。
塩も線香(売ってた)も出番はありませんでした。
※
次男は部屋で着替え始めたことも、リビングで歌い出したことも、その後のことも全部覚えていました。
「でも、俺がやったんじゃない」
それはそうでしょう…次男もそこそこ打てるようになったとは言え、あの美しいフォームは、次男のそれとはあまりに違いましたから。
どこの誰だったのかは判らないらしいです。
ただ、
「最初は悲しかった。でも、打ち出したら嬉しかった…と思う。怖かったけど、嫌な感じはしなかった」
だそうです。
※
念のため、翌日私の実家に連れて行き、近所の拝みさんに見てもらいました。
「何も無い。キレイなもんよ」
と言ってもらい、やっと本当に安心しました。
「満足して逝ってるはずや。無念が晴れたんじゃろ」
とも言っていました。
「ただし、まだR坊に大きな疲れが残っとる。命が疲れとる。ゆっくり精神を休ませなあかんよ」
と、お守りを頂きました。
それはオガミさん特製のちりめんで出来た小さな袋に、勾玉のような綺麗な色の石が入れられた物でした。
長男は、
「何でRより打てる俺じゃなかったんだろ?」
と言っていましたが、拝みさんは
「相性もあるし、M坊よりR坊の方が単純やしのぉ」
と笑っていました。
次男は、
「達人に貸してから体の使い方がちょっと解った」
と言い、日々素振りに余念がありません。
何かコツを掴んだのかもしれません。
終始慌てふためいていたため、後から思うと何やらおかしいことになっていますが、あの時は次男を失うのではないかと、この上ない恐怖でした。
当の本人は今日も呑気に登校しましたが…。
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上手な人の歌や演奏は、胸に響くものがありますよ。