
フリーランスのウェブデザイナーをしている。普段は自宅で仕事をしているが、去年の秋、地方のクライアントとの打ち合わせのために、初めてN県のK市という街を訪れた。
駅前には目立った商業施設もなく、タクシー乗り場に一台だけ停まっていたタクシーに乗って、予約していたビジネスホテルへ向かった。築年数はかなり経っているようで、外壁のタイルが数か所剥がれていた。フロントには六十代くらいの女性が一人。チェックインを済ませ、三階の307号室の鍵を受け取った。
エレベーターを降りて廊下を歩いているとき、妙な感覚があった。
この廊下を、前にも歩いたことがある気がする。
もちろん、この街に来たのは初めてだ。ビジネスホテルの廊下なんてどこも似たようなものだから、既視感があっても不思議ではない。そう思って307号室のドアを開けた。
※
部屋に入った瞬間、違和感が強くなった。
シングルベッドの位置、窓の向き、ユニットバスへの導線。すべてが「知っている」配置だった。
荷物を置いてベッドに腰かけ、ふと天井を見上げた。右上の隅に、茶色い小さな染みがある。
——あの染み、知ってる。
自分でもおかしいと思った。初めて来た街の、初めて泊まるホテルの、天井の染みを「知っている」なんて。疲れているんだろう。ノートパソコンを開いて、翌日の打ち合わせ資料の最終確認をすることにした。
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夜中の二時頃、ふと目が覚めた。エアコンの低い稼働音だけが聞こえる。
喉が渇いて、枕元のペットボトルに手を伸ばしたとき、窓の外から微かに踏切の音が聞こえた。カンカンカン、という警報音。そして電車が通過する振動。
——ああ、この時間に貨物列車が通るんだ。
そう思ってから、背筋が冷たくなった。
なぜ、「この時間に通る」と知っているのか。
チェックインしたのは昨日の夕方で、ホテルの近くに線路があることすら意識していなかったはずだ。
水を飲んで、もう一度横になった。眠ろうとしたが、頭の片隅で何かが引っかかっていた。
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翌朝、シャワーを浴びてから身支度を整えた。打ち合わせは午前十時から。時間に余裕があったので、朝食を取ろうとフロントに降りた。
昨日の女性とは別の、若い男性スタッフがいた。朝食会場を尋ねると、「一階の奥です」と案内してくれた。
狭い食堂に入ると、窓際の席が空いていた。腰を下ろして、ふと窓の外を見た。
小さな駐車場の向こうに、錆びたフェンスに囲まれた空き地が見える。その奥に、使われていない古い倉庫のような建物。
——知ってる。あの倉庫のことも。
もう、偶然の既視感では説明がつかなかった。
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打ち合わせを終えてホテルに戻り、チェックアウトの準備をしていたときだった。ベッドサイドのテーブルを動かそうとして、壁との隙間に何かが挟まっているのに気づいた。
引っ張り出すと、二つ折りにされたメモ用紙だった。ホテルの備え付けのもので、薄い黄色の紙に青いロゴが入っている。
開いてみた。
そこには、ボールペンで短い文章が書かれていた。
「この部屋には もう泊まるな」
文字を見て、指先が震えた。
それは、自分の筆跡だった。
丸みを帯びた「の」の書き方。「ま」の最後の画が少し跳ねる癖。間違いなく、私の字だ。
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フロントで、できるだけ平静を装って聞いてみた。
「以前、私と同じ名前の人がこのホテルに泊まったことはありますか」
若い男性スタッフは怪訝そうな顔をしながらも、パソコンで宿泊履歴を調べてくれた。
「いえ、お客様のお名前での宿泊記録は、今回が初めてですね」
そうですか、と答えて、ホテルを後にした。
駅までのタクシーの中で、あのメモをもう一度見た。紙は少し黄ばんでいて、折り目がしっかりついている。少なくとも数か月は、あそこに挟まっていたように見えた。
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あれから半年以上が経った。K市のクライアントとの仕事は継続しているが、打ち合わせはすべてオンラインにしてもらっている。
あのメモは、まだ机の引き出しにしまってある。
「この部屋には もう泊まるな」
あの言葉が、警告だったのか、それとも——。
考えるのはやめることにしている。ただ一つだけ、確かなことがある。
私は二度と、あのホテルには泊まらない。