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母が一人で話しかける相手

おばあちゃん

去年の盆に、実家に帰省した時のことだ。

私は今、夫と子どもと三人で都市部に住んでいる。実家は車で三時間ほどかかる山間の町で、七十二歳になる母が一人で暮らしている。

父が五年前に逝ってから、母はずっと一人だ。

足腰はまだ丈夫だし、近所の人たちと野菜のやりとりもしているし、ひとまず元気でいてくれている。でも、年に数回しか顔を見に行けないのが、ずっと気がかりだった。

その夜は、子どもたちが早めに眠ってしまって、私は台所で後片付けをしていた。

廊下を挟んだ向こうに、仏間がある。

ふと気づいた。母の声が聞こえる。

仏間の方向から、低くつぶやく声。一定のリズムで、話しかけているような口調だった。

最初は、お経か何かかと思った。

でも違った。ちゃんと会話している。「そうねえ」「わかってるよ」「もう少しだからね」——そんな相槌のような言葉が混じっていた。

誰かと電話でもしているのかと思って、廊下に出た。

仏間の障子が少し開いていた。

中を覗くと、母は仏壇の前に座っていた。手を合わせているわけでもなく、ただ、仏壇の方を向いてぽつぽつと話しかけていた。

スマホは手にしていない。

「お母さん?」

声をかけると、母は驚いた様子もなく振り返った。

「あら、終わった?」

「誰かと話してたの?」

「お父さんにね」

母は当たり前のように言った。「毎晩話しかけてるんだよ。でないと寂しいから」と。

そうか、と思った。父の仏壇に話しかけているだけか。そういう人は多い。

その夜は特に気にせず、眠った。

翌朝、早めに目が覚めた。

台所に行くと、母がすでに朝ごはんの準備をしていた。縁側の方を向きながら、また何かぼそぼそ話している。

「お母さん、またお父さんと話してるの?」

「ちがうよ。こっちは〇〇ちゃんと話してたの」

〇〇ちゃん、と言われた名前に聞き覚えがなかった。

「誰?」

「ほら、縁側によく来る子。最近ずっと来てるんだけど、なんか事情があるみたいでね」

縁側を見ると、誰もいない。庭に猫が一匹、丸くなっているだけだった。

「……猫のこと?」

「猫じゃないよ。子どもだよ」と母は笑った。「よく知らない子だけど、寂しそうだから話しかけてあげてるの」

縁側には誰もいない。

私は少しだけ、嫌な気持ちになった。

年だから、幻でも見ているのか。あるいは、一人が長すぎて、独り言が会話に変わってしまったのか。

でも、母の目はしっかりしていた。ぼんやりしているわけでも、怯えているわけでもない。むしろ、穏やかな顔で縁側を見ていた。

「今もいる?」と聞いた。

「さっき行っちゃった。朝ごはんがあるから、また来てねって言ったの」

その日の午後、近所に住む幼馴染みの家に挨拶に寄った。

何気なく、母の話をした。縁側に子どもが来るとか、知らない子に話しかけているとか。

幼馴染みは少し黙って、それから言った。

「それ……うちの縁側じゃなくて、あんたの実家の?」

「そう。お母さんが、よく知らない子が来るって」

また少し、間があいた。

「実はね」と幼馴染みは続けた。「十年くらい前に、この辺に住んでた子がね……。川で亡くなってるの、見つかったんだよ。小学生の子で」

私は何も言えなかった。

「あなたのお母さんは優しい人だから、だからかもしれないけど……」

幼馴染みは最後まで言わなかった。私も、聞かなかった。

実家に戻って夕方、縁側を見ると、母がまた誰かに話しかけていた。

今度は私も隣に座った。

何もいない。少なくとも、私には見えない。

でも母はにこにこしながら「娘が来てるんだよ、紹介するね」と、縁側の空気に向かって言った。

不思議と、怖くはなかった。

ただ、庭の草が夕風にそよいで、その音がやけに近く聞こえた気がした。

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