お隣に、両者とも全盲のご夫婦が住んでいらっしゃいます。
この話は、ご主人から茶飲み話に伺ったものです。
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ご主人は16歳の時に、自転車事故で失明されたそうです。
当然、精神的に落ち込んでしまったのですが、生来の負けん気からすぐに積極的に出歩くようにし、家に閉じ籠もらないように頑張ったのだそうです。
と言っても、急な失明です。目の見えない状況での行動には慣れていないため、随分危険な目にも遭ったそうです。
しかし周囲の人々の意外なほど温かな助けのお陰で、何とか大過なく過ごすことが出来たそうです。
例えば電車のホームを歩いている時に杖が線路側に落ち込み、その勢いで転落しかかった事があったそうですが、その時は誰かが
「危ない!」
と警告しつつ裾を引いてくれて、それで助かったのだそうです。
また、交通量の多い車道を横断している時にも、前方不注意の車に押されて倒れかかったそうですが、これまた誰かが抱き止めてくれたのだそうです。
これら名も無い人たちのお陰で怪我も無く過ごすことが出来て、有り難いことだと思っていらしたそうですが……。
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全盲の生活に慣れた頃、ふとあることを思い出したそうです。
何度か手を差し伸べてくれた人たち、それらの人々が、声や手の柔らかさから一様に女性であった事を。
そう言えば、声もよく似ていたような気がする。と言うより、同一人物だった気がする。
そう考えると、ちょっと怖いような気持ちになられたそうです。
何となく理解出来ますね。
決して一定していない出歩き先で、同じ未知の人物に付き纏われていたとしたら……。
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その頃、あるサークルで出会った、やはり全盲の女性と恋に落ちました。その女性が今のご夫人です。
ご夫人と共に夜を過ごし、四方山話に花を咲かせるようになった頃、ちょっとした事実が明らかになりました。
実はご夫人の方にも同様の体験があり、やはり危険な場面に助けてくれる特定の女性が現れるということが…。
お二人には、同一人物のように思われたのだそうです。
ただこの女性の登場は二人が知り合う遥か以前から続いており、また住所も離れていたので、同一人物が偶然現れていたとは考え難いのです。
しかしお二人は、
「不思議なこともあるものだ」
という程度の受け止め方で、この女性に取り敢えず感謝をされておられたそうです。
ストーカーではないか、という方向には考えなかったのですね。
しかし残念なことに、この頃には既にその女性は全く姿を表さなくなっていました。
お二人とも危険な目に遭うことが殆ど無くなったせいもあるのでしょう。
一言、その女性のお陰でつつがなく過ごせて来た感謝を伝えたいのに。
やがて華燭の宴を挙げ、お二人は夫婦として共に歩む事になられました。
そして今に至っているという訳です。
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このご夫婦には、三人の可愛い子供たちが居ます。
長女は七つで、とても利発な可愛い子です。
今ではいっぱしの役に立っていて、ご夫婦が外出される時は、
「おとうさん、こっち!」
なんて、お二人をガイドしたりして。
あと十年もしたら、きっと気立ての良い娘さんになるでしょうね。
「きっとそういうことだったんだよ」
と、ご主人は真顔で仰っています。