あれは小学6年生の頃、夏の盛りだった。
僕は母方の田舎に一人で泊まりに来ていた。
田舎のため夜はすることがなく、晩飯を食った後はとっとと寝るのが日課になっていた。
※
特に寝苦しかった、ある熱帯夜のことだ。
蚊帳の中でゴロゴロしていると、不意に
「ウウウウウウウウウ」
と犬が唸るような声が、どこからともなく聞こえて来た。
聞き耳を立てていると、
「シッシッシッシ」
という水を切るような足音が、家の前を通り過ぎて行ったようだった。
起きて縁側に出てみると、暫くしたら家のブロック塀の向こうに犬の気配が戻って来て、そしてまた通り過ぎて行った。
『野犬かな…』
そう思いながら佇んでいると、祖母もやって来て
「犬じゃろうか。ちょいと見てくる」
と言い、玄関の方へ行ってしまった。
僕は壁のすぐ向こうが幅広のドブだったことを思い出し、
「ドブの中を走ってんのか~」
と納得したが、祖母は大丈夫だろうかと心配になった。
※
それから暫く経って祖母が帰って来た。
「どうやった?」
と聞いたが、何故か答えてくれなかった。
祖母は僕を座らせ、改まってこう言った。
「あれはもののけじゃ。犬の幽霊じゃ。見てはならんぞ」
祖母はよく恐い話をしてくれたので、これも僕を怖がらせようとしているのだなと思い、
「どんな幽霊?」
と聞くと、
「四肢しかない。首も頭もない。それがドブを走っとる」
僕は想像してゾッとした。
「ええか。あれは昔から夏になると出る、子供をさらう山犬の霊じゃ。
子供を探して一晩中走り回る。絶対に見てはならんぞ」
都会っ子を自称する僕も、そうしたものがあってもおかしくない田舎独特の空気に気圧され、すっかり怯えてしまった。
僕は祖母の言う通り、大人しく布団に入った。
※
しかし布団を頭から被っても、犬の唸り声が微かに聞こえる。
何度目かに家の前を足音が通り過ぎた時、ふと思った。
『頭もないのに、どうやって犬が子供をさらうのか?』
一度気になると止まらない。
僕はどうしても犬の幽霊を見たくなった。
そもそもリアルな足音を聞いているのに、それが幽霊だと言われても段々嘘臭く思えて来る。
祖母の怪談の神通力も、子供の好奇心には勝てなかったらしい。
僕はこっそりと部屋を抜け出し、玄関へ向かった。
※
外に出て見ると、街灯の明かりが微かに側溝を照らしていたが、肝心の犬の幽霊は見当たらなかった。
僕はやぶ蚊と戦いながら、家の前でじっと待っていた。
『何か餌でも投げたら飛んでやって来ないかなあ』
そう考えていた時、それはやって来た。
「フッフッフッフ」
と荒い息遣いが左手の方から聞こえて来て、黒い影が見えた。
側溝は大人の背丈ほどもあったので、上に居る限り犬に飛び付かれることもないと高を括っていた僕は、暗い中でよく見ようと見を乗り出した。
黄色い街灯に照らされて犬の頭が見えた時、僕は
『やっぱりばあちゃんのホラじゃあ。ただの犬や』
と妙に勝ち誇った気分になった。
しかし、それが目の前を通り過ぎた時、心臓に冷たいものが走った。
犬は何かを咥えていた。
僕には全く気付いていないのか、犬は血走った目で泥水を刎ねながら走り去って行った。
僕はその一瞬に解った。
人間の赤ん坊が、その顎に咥えられていた。
首がぶらぶらしていて、今にも千切れそうだった。
僕は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
一歩も動けなくなったが、
『ばあちゃんはこれ見てほっといたんか』
という考えがぐるぐる頭を回った。
「大人に教えなあかん。大人に教えなあかん」
と呟いているつもりが、カチカチ歯の根が合わなかった。
そうしているとまた犬の足音が近付いて来て、目を反らせないでいると、今度は赤ん坊の首が根元からなくなっていた。
そして犬が走り去って行く時、ちょうど僕の目の前を、赤ん坊の首が笑いながらすーっと追い掛けて行った。
※
僕は這うようにして家に戻ると、祖母の布団に潜り込んで泣いた。
祖母は、
「あれはもののけじゃ。あれはもののけじゃ」
と言いながら、俺を叱るように抱き締めてくれた。
年寄りの怪談は素直に怖がるべきだということを思い知らされた。