
祖母が亡くなって三か月が経った秋のことだった。
母から「そろそろ仏間の整理をしたい」と電話があり、私は夫と子どもを置いて一人で実家に帰った。夫には「三日くらいで戻る」と伝えたが、正直なところ、少し一人になりたかった。
祖母の家は実家から歩いて五分ほど離れた、古い農家だった。
祖父が四十年以上前に建てたもので、廊下は歩くたびにきしみ、縁側の縁板はところどころ反り返っていた。でも祖母はそこを一人でずっと守っていた。庭の手入れも、掃除も、一切手を抜かずに。
子どものころ、私はよくその縁側で宿題をした。祖母は隣に座って麦茶をくれた。別に何か特別なことを話すわけでもなかったけれど、あの縁側の時間が、私は好きだった。
祖母が逝って初めて、自分がどれだけあの場所を懐かしんでいたかに気づいた。
※
実家に着いた夜、母は「今日は疲れたでしょう。片付けは明日から」と言って、温かい汁物を出してくれた。
食後、私はひとりで祖母の家へ行ってみることにした。
蛍光灯を点けると、部屋はそのままだった。仏壇の前には水と菊の花。押し入れには季節の布団。祖母の形見分けはまだ何も手をつけておらず、暮らしの気配だけが残っていた。
私は縁側に腰を下ろして、庭を眺めた。
夜の庭は真っ暗で、草の匂いと土の匂いが混じった冷たい空気が漂っていた。秋の虫の声が遠くから聞こえた。
祖母はここによく座っていた。縁側で茶を飲みながら、庭を眺めながら、私が子どものころ隣に座らせてくれた。その頃の記憶が、ふわりと戻ってきた。
※
うとうとしかけたとき、声が聞こえた。
歌声だった。
低く、ゆるやかな旋律。
すぐにわかった。祖母がよく歌ってくれた子守唄だった。地元に伝わる古い唄で、正確な歌詞は私も知らないが、そのメロディーだけは体が覚えている。
私は息をのんで耳を澄ました。
庭の方から聞こえる、と思った。でも庭には誰もいない。外はもう深夜近く、近所の家の明かりもほとんど消えている。
しばらくすると、歌声はふっと消えた。
夢でも見ていたのだろうか、と思いながら、私は縁側で丸まるようにして眠ってしまった。
※
翌朝、目が覚めると庭が白く輝いていた。
朝露かと思ったが、違った。
庭の隅、いつも祖母が大切にしていた花壇の一角に、白菊が数輪、咲いていた。
私は縁側から庭に降りて、近くで見た。花びらはみずみずしく、朝露をまとってきらきらと光っていた。
昨晩はなかった。暗くて見えなかっただけかもしれないが、確かに、昨晩ここに何も咲いていなかった気がした。
実家に戻って母に話すと、母は少し顔色を変えた。
「菊は咲いてなかったよ。先週来たとき確認したから。秋菊の季節じゃないし」
「じゃあ、あれは何?」
「さあ……」
母はそれ以上何も言わなかったが、目が少し潤んでいた。
※
その日の午後、仏間の押し入れを整理していたら、古いアルバムが出てきた。
祖母の若い頃の写真や、父方の親族の集合写真が並んでいる中に、縁側で撮られた一枚があった。
縁側に腰かけた祖母と、幼い頃の私。
夏の終わりらしく、二人とも汗をかいている。祖母は私の頭の上に手を乗せて、どこか遠くを見ながら笑っていた。
その写真の端、庭の方に、白っぽいぼやけた影が写っていた。
人の形をしているようにも見えたが、光の加減かもしれない。フィルム写真の時代によくある、光漏れのようなもの。
でも私は、その影をしばらく見つめてしまった。
祖母と同じように、庭の方を向いている気がしたから。
母を呼んで見せると、「ああ、これ昔からずっと写ってるんだよ」と言った。
「昔から?」
「うん。お父さんもずっと気にしてた。でもこの家で嫌な思いをしたことは一度もないから、悪いものじゃないって言ってた」
母はそれだけ言って、またアルバムをめくり始めた。
何枚もめくっていくと、別の写真にも、庭の隅の同じ場所に白い影があった。
夏の写真にも、正月の写真にも。
ずっと、そこにいたのだ。
※
夕方、片付けが一段落したとき、私は縁側に腰かけて庭の白菊をもう一度眺めた。
不思議だとは思う。でも怖くはなかった。
むしろ、なんとなく「会いに来てくれたのかな」と思った。
子守唄も、白菊も、あの写真の影も、ぜんぶそうかどうかはわからない。思い込みかもしれないし、偶然かもしれない。
でも、昨夜縁側で聞こえてきたあの旋律だけは、本物だったと思っている。
あの声は、祖母の声だった。
※
帰りの車の中で、子どもから電話が来た。
「おかあさん、いつ帰ってくる?」
「明日には帰るよ」
「はやく帰ってきて。さびしい」
受話器の向こうで、幼い声が少し震えていた。
私は笑いながら、「大丈夫。もうすぐ帰るから」と言った。
電話を切った後、しばらく景色を見ていた。
子どもの声を聞いて「会いたい」と思ったように、祖母も私に会いたくて来てくれたのかもしれない。
そう思ったら、胸の奥がじんと温かくなった。
窓の外の田んぼが、夕暮れのやわらかい光で金色に染まっていた。