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百日紅の根元で

日本庭園

去年の夏のことだ。

お盆に合わせて、七年ぶりに田舎の実家へ帰った。結婚して県外に出てから、なかなか機会が作れなかった。夫の仕事の都合に、子供の学校行事が重なって、気がつけば随分と間が空いてしまっていた。

七年前に母が亡くなったとき以来だから、父は一人で暮らしている。電話では「元気だ」と言うが、声が少し細くなったような気がしてならない。娘は当時七歳で、曾祖父と会うのは赤ちゃんの頃以来だった。ひいおじいちゃんに会えると楽しみにしていたが、私が幼い頃から縁側で煙草を吸いながら庭を眺めていた祖父は、三年前にもう逝っていた。

実家に着いたのは夕方の四時頃だった。父は玄関で待ち受けていた。少し背が縮んだように見えたが、顔色は悪くなかった。娘は初めての田舎の家に目を輝かせて、あちこちに走り回った。広い庭を見て「お外で遊んでいい?」と聞き、父が笑いながらうなずくと、裸足で縁側を降りていった。

私は台所でお茶を淹れながら、久しぶりの実家のにおいをかいだ。古い木の家のにおいと、庭の草のにおいが混ざったような、あの独特のにおい。子供の頃から染み付いた記憶が、するすると戻ってくる。

縁側に座ると、父も隣に来た。しばらく二人で、庭で遊ぶ娘を眺めた。

庭の隅に、百日紅の木がある。祖父が若い頃に植えたという木で、毎年夏になると濃いピンクの花をつける。今年も満開で、夕方の光の中で赤みがかって見えた。娘はその木の根元のあたりに腰を下ろして、草を摘んでいるようだった。時々、口を動かしながら。

「あの子、誰かと話してるみたいだね」

父がそう言って、目を細めた。

確かに、娘は誰かに向かって話しかけるような仕草を繰り返している。でも庭には娘しかいない。子供はよく一人遊びの中でそういうことをする。空想の友達と話す。そう思って、気にしないことにした。縁側の風鈴が小さく揺れた。風はなかった。

夕飯のあと、娘が父に聞いた。

「庭にいたおじいちゃん、誰?」

父は少し驚いたようだった。「どのおじいちゃん?」と聞き返した。

「百日紅の木のそばにいた。白いシャツを着てた。お花をさわってた」

父と私は目を見合わせた。

「……白いシャツを着てたのか」

「うん。でもすぐにいなくなっちゃった。また来てくれるかなって言ったら、会いたくなったら来ると思う、って言ってた」

父の目が静かに赤くなっていた。祖父は生前、夏になると必ず白いシャツを着ていた。庭の手入れをするときも、百日紅に水をやるときも、いつも白いシャツだった。娘が知っているはずのないことだ。赤ちゃんの頃に一度会ったきりで、写真を見せたことも、話したこともない。

「もう一個ね、おじいちゃんが言ってた」

娘は続けた。

「『かぎはちゃんとある』って。よくわからなかったけど、そう言ってた」

父がはっとした表情をした。しばらく何かを考えているような顔をして、でもその夜はそれ以上何も言わなかった。

翌朝、朝食の後で、父が話し始めた。

「実は、去年からずっと探しているものがあった。お前の祖父から受け継いだ、形見の印鑑入れだ。大切にしていたのに、どこへやったか見当がつかなくて、ずっと気になっていた」

昨夜の娘の言葉を聞いて、思い出したことがあるのだという。

「親父がよく言ってたんだ。大事なものは鍵のかかる場所に置け、って。子供の頃から何度も聞かされた言葉だった。だから、もしかしたら、と思って」

縁側の床下に古い板戸がある。子供の頃から存在は知っていたが、鍵をなくしたと思っていたのでずっと開けずにいたのだという。二人でしゃがんで覗き込むと、板戸の隙間に、埃の積もった小さな巾着袋がかかっていた。

中には真鍮の古い鍵が一本入っていた。錆もなく、しっかりとした重みがあった。

板戸の錠前に差し込むと、すんなりと開いた。

中に木箱があった。蓋を持ち上げると、古びた印鑑入れが丁寧に布に包まれて入っていた。赤い漆塗りで、金の蒔絵が施されている。祖父がさらにその父から受け継いだという、家代々の品だった。

父は声を出さずに泣いた。縁側に座って、木箱を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。私はそのそばに座って、何も言わずにいた。庭の百日紅が朝の光の中で静かに揺れていた。

娘はその朝、縁側でご機嫌に朝ごはんを食べていた。

「またあのおじいちゃんに会えるかな」

父は涙をぬぐってから、娘に笑いかけた。

「会えるといいね」

娘はにっこりと笑った。

「大丈夫だよ。また来てくれるって言ってたから」

庭の百日紅は、朝の光の中でも静かに揺れていた。花びらが一枚、ひらひらと地面に落ちた。風もないのに。

あれから一年が経つ。

父は今も一人で実家に暮らしている。電話の声が、少し柔らかくなったような気がする。形見の印鑑入れは、仏壇の前に置いてあるらしい。「毎朝見るようになった」と、こないだ言っていた。

娘はあの夏の出来事を、今もちゃんと覚えている。「白いシャツのおじいちゃん、またいたらいいな」と、たまに言う。

百日紅は今年も咲いているだろう。夕方の光の中で、あの濃いピンクの花を揺らして。誰かがその根元のそばに立っているような気がするのは、きっと気のせいではないと思っている。

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