数年前、深夜の0時頃に、その頃付き合ってたSから電話が掛かってきた。
切羽詰まったような声と口調で、話の内容がいまいち理解出来ない。
外にいるみたいなので、取り敢えず家まで来いと言った。
Sはタクシーでやって来た。普段は滅多に使わないのに。
部屋に入ってもなかなか座らないで落ち着かない様子。
「ゆっくり話してみ」と促すと、Sは自分で煎れた茶を飲みながらこんなことを語った。
※
仕事を終え、飯を食べて、自分の部屋に帰り着いたのが23時30分頃だった。
焼き肉を食べたので、一刻も早く風呂に入りたかった。
玄関に荷物を置くと、電気も点けずに風呂のドアを開ける。
途端にモワッと煙りのようなものが顔に。スイッチを探る手が止まった。
湯船が黒い布で覆われている。その上に──白い花束、火の点いたロウソクが数本。
線香の煙と匂いが充満する中央に、額に入ったモノクロ写真。
ロウソクの灯りに浮かび上がる白い笑顔。
その目が背景と同じ黒に塗り潰されている。
数瞬の思考停止。
やがて足が震え始め、次々と頭を過る疑問。
『葬式? 誰がこんなことを? いつの間に? 何のために? どうやって?』
鍵は掛かっていたし、窓は…閉まってる。となると、これをやった人は今どこに─。
その時、押入の方から微かに聞こえてきた。
暗闇の中、「サラ…サラ…」と、紙を一枚ずつ落とすような音。
反射的に体が動き、気が付くとバッグを引っ掴んで外へ。
国道まで無我夢中で走って、そこから電話をした。
※
途切れがちで断片的な話だったが、Sの話を纏めると大体こんな感じだった。
「泥棒だったらどうしよう…。そう言えば、火事も心配だなぁ」
そこで、二人して彼女の部屋に行ってみることにした。用心のために鉛管を持って。
2階建てのアパートの2階。階段を上がって部屋の前に立つ。
音は聞こえないし何の気配もない。ドアを開く。
鼻をつく線香の匂い。電気を点け風呂へ。
風呂場は聞いた通りの光景だった。ただロウソクと線香の火は消えている。
遺影の目は墨のようなもので塗り潰されていた。粗雑で子供の塗り絵のようだった。
「わああああああああ!!」
背後で悲鳴が聞こえた。
風呂場を出ると、Sが開いた押入の前で口に手を当てて固まっている。
押入の上段から大量の髪の毛が床にこぼれ落ちていた。
半端な量ではない。床に落ちた髪だけで大人一人分どころではなかったと思う。
Sは惚けたように立ち尽くしていた。なぜか片足が円を描いている。
ちょっと洒落にならないということで、俺の携帯で110番した。
「あれ、髪の毛が落ちる音だったんだ…」
後ろでSが呟いていた。警察が来るまで何度も何度も。
部屋から無くなっていたものは何もなかった。
風呂場と押入以外の場所が荒らされた形跡もない。
そのせいか、警察は聴き取りしただけであっさり帰ってしまった。
指紋とかを調べるのかと思ったが、そんな事はしなかった。
ただ、風呂場に置かれていたもの一式と、大量の髪の毛はSのものではない事をしつこいくらい確認してから、全部持って行った。
※
翌日からSは俺の部屋に泊まるようになり、それから半月ほどで俺たちは別れた。
一緒にいる時間が増え、お互いの嫌な所が見えてきた、というのもあったかもしれない。
けれど、あの日以来、Sは明らかに変わってしまった。
不機嫌でふさぎ込みがちになり、一日に一度は突然泣き出してしまう。
仕事も休みがちになった。何を食べても味がしないと言って食事を抜く。
夜中に目が覚めると、Sはテーブルの前に座って鏡を見つめていることもあった。
別れてからのSのことは、同僚だった弟を通じて耳に入ってきた。
日に日におかしくなるSを、家族は病院へ連れて行ったらしい。
検査の結果、癌が見つかった。
発見時にはすでに手遅れで、一月と経たずSはこの世を去ってしまった。
一応、葬儀には出席した。
段の上の方には、ニッコリと笑うSの遺影があった。
鮮やかなカラー写真は、風呂場で見た遺影の陰鬱とは似ても似つかない。
遺体の顔も拝んだ。思いの外ふくよかで肌も綺麗だった。
ただ、それは『葬儀屋の修復テク』のせいだと後で聞かされた。
「姉ちゃんゲッソリ痩せてたのに、綿詰めて化粧したら、元気そうに見えるんだもんな」
説明しながら、弟はちょっと涙声になった。
「カツラも着けてもらってさ、薬の副作用で、髪の毛ごっそりと抜けちまってたのに…」
警察が来るまで呟いていたSの言葉が耳に蘇って、少し震えた。
結局ね、意識的にせよ無意識にせよ、Sが自分で全てをやったというのが、一番筋が通る仮説だと思うんですよ。
自分が癌であることを知っていて、全ての意匠をそれに見立てて演出した。
ただ、それを行うことによって、誰に何を伝えようとしたのか?
それを考ようとすると、感情が昂って冷静に考えられないんですよ、俺には。
自分で自分の思考にストップをかけているんでしょうね、きっと。