前職が前職だったので、不思議な話を聞く機会はそれなりにあった。
老若男女問わず、「こんなことがあったんだが、何もしなくて大丈夫か」「あれは一体何だったのか」などを寺に尋ねに来る人は多い。
住職が上手く煙に巻いて安心させて帰らせたり、忙しい時はまともに取り合わなかったりもしていた。
それを横で聞いている内に『不安って何だろう』と漠然とした疑問を抱いた。
僕は心霊現象は信じない。昔は極普通の怖がりな子だったが、宗派が霊だの何だのを認めなかったため自然と合理的な解釈を探し、否定しようとする癖が付いた。
本当はおっかないけれど、怖がらない姿勢が出来たとでも言おうか。
しかし、そんな中でどうにも僕の頭では否定し切れなかったものが幾つかある。
※
寺の居間で、Aさん(仮名・中年男性)が「先週のことですが…」と前置きしてから始めた話。
中国地方のとある県に旅行に出掛け、昼食に郷土料理を食べたが、それが身体に合わなかったらしく店を出てから腹の具合が悪くなった。
田舎道なこともあり、トイレを借りられそうなコンビニなどはどこにも見当たらない。
車を停めその辺の草むらで…とも思わないでもなかったが、折角の旅行にちょっと恥ずかしい思い出が追加されてしまうのも面白くない。
もう少し、もう少しと我慢を重ねつつウロウロていると、村営会館の看板を見つけた。
矢も盾も堪らず駆け込もうとしたが、ちょうど玄関から出てきたおばさんと鉢合わせ、危うくぶつかりそうになった。
取り急ぎトイレを貸してくれと頼んだが、「もう閉館時間で私も鍵を閉めて帰るところだから、他所を当たってくれ」と、にべもない返事が返って来た。
しかしお腹がいよいよ差し迫っていたAさんには、到底聞ける話ではない。
そこを何とかと頼み込み、露骨に溜め息を吐かれながらもどうにか中に入れてもらい、トイレの場所を聞き一目散に駆け出した。
古い木造建築なため足音が大きく反響し、それがお腹に響くようで、嫌なおばさんへの腹立ちとも相まって、ここは酷く気に食わない所だと思った。
※
飛び込んだトイレは個室が三つある広いものだった。
Aさんは切迫した状況ながらも、自分が帰った後でもしあの嫌なおばさんが窓か何かの確認に来た時に、臭いが残っているような状況になるのを避けようと、換気扇のある一番奥の個室の戸を開けた。
しかし、(汚い話しで恐縮ですが)そのトイレは前に用を足した人が結構な量を排泄し、更に流さずにそのまま出て行ったらしく、尋常ではないほどの量が残されていた。
Aさんは、これは下手に流したら詰まるかもしれないと考え、急いで隣の個室に飛び込んだ。
何とか間に合い至福の一時を味わっていると、遠くから足音が聞こえてきた。ゆっくりとした足取りで近付いて来て、トイレのドア前の廊下で立ち止まった。
どうやらあのおばさんが急かしに来たらしい。
しかし、さっきの遣り取りの中での心無い対応に腹を立てていたAさんは、別段急いで外に出ようとは思わなかった。
まさか男子トイレの中にまでは入って来ないだろうと高を括っていたこともあり、心ゆくまで力み続けた。
※
ようやくお腹がすっきりしたAさんが個室から出たのは、トイレに駆け込んでから五分ほど経ってからだった。
ドア前から去って行くような足音はしなかったため、どうやらまだ外におばさんはいるらしい。
意地悪を通り越して変人だな…と思いながら手を洗っていると、もし奥の個室をこのままにしていたら、おばさんはAさんが残して行ったように思わないかとの疑問が湧いた。
しかし流せるような量でもなかったし、どうしようか…と目を向けたところ、ふと違和感を覚えた。
ドアノブに一部赤い部分がある。内側から鍵が掛かっているらしい。近寄って確認したが間違いない。
隣の個室に篭っていながら、ドアを開閉する音に気付かなかったことが不思議だった。まさかそこまでの爆音をお尻から奏でていた訳でもない。
廊下からの物音に注意を向けていたため音には敏感だったはずで、隣の個室に人が入る音を聞き漏らす訳もない。
第一、隣は流さないと座る気も起きないほどの惨状だったはずだ。にも関わらず、流した気配など微塵もなかった。
しかしまあ、人が入っているなら流しに行く手間も省けたかなと思い廊下側に目を転じたところ、奥の個室からトイレットペーパーを引き出す音が聞こえた。
やはり人が居たというやや場違いにも思える安心感を覚えつつ、一歩踏み出した足が凍り付いた。
さっきまで自分が使っていた個室の鍵も閉まっている。
無論トイレの中にはさっきから誰も入って来てなどいない。ましてやAさんの目の前の個室に、Aさんに気付かれずに入れる訳がない。
今までに体感したことのない奇妙さに、ドアノブを睨んだまま動けなくなった。その数秒の内に、奥の個室のトイレットペーパーを引き出す音が異常に長いことに気が付いた。
紙を全て引き出そうとでもしているように、音は一向に途切れない。極普通の生活音であるはずのその音が、違和感を覚えた途端におぞましい音に聞こえてきた。
混乱するAさんの耳に、誰も入っていないはずの、しかし鍵が掛かっている目の前の個室の中から、隣と同じトーレットペーパーを引き出す音が聞こえてきた。
その音を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。何がどうとは説明できないが、他のいつでもない今、他のどこでもないここに、他の誰でもない自分が居ること自体に絶望的なほどの恐怖を感じた。
個室の中の『何か』に気付かれたらおしまいだと思ったそうだ。
※
腰が砕けそうになるのを何とか堪えつつ、音を立てないように細心の注意を払いつつ、廊下とトイレとを隔てるドアに辿り着いた。
ドアノブに掛けた手に体重をかけ何とか身を支えているAさんの耳に、今度は廊下から奇妙な音が聞こえてきた。
ドアの外で、誰かが飛び跳ねている音がする。
しかも飛び上がってから着地するまでの間隔が異常に長い。Aさんが言うには、棒高跳びのような感じだったらしい。
直感的に、今外に出るとここに居るより怖いことが待っていると感じた。外に出られず、しかしトイレの中になど絶対に居たくない。
どうしようもなくなったAさんの中で、何の前触れもなく突如感情が爆発した。ドアの外、廊下で飛び跳ねている『何か』に対して、抑えようのない怒りと殺意を覚えた。
Aさんは何故か、この状況は外に居る『何か』のせいだと確信していた。外に居る『何か』を殺さなければ、自分は死んでしまう。外に居る『何か』を殺せば、自分は助かる。
ならば、その『何か』を殺すことに、何の遠慮をすることがあるだろう。
※
ドアを蹴破るようにして開け、外に飛び出した。廊下に仁王立ちのまま、千切れんばかりに首を回し八方を見回したが、殺せそうな生き物は何も居ない。
次に、床に這いつくばって小さな『何か』を探した。しかし何も居ない。弾かれたように跳ね起きて窓の外を見ても、鳥の一羽も居ない。
この時、Aさんは涙が止まらなかったと言う。外に居る『何か』を殺さなければいけないのに、何故何も居ないのか。何でも良い。誰でも良い。どんな生き物でも良い。
何故私に殺されてくれないのか。このままでは、私が『何か』に殺されてしまうじゃないか。どうしてくれるんだ。
涙を拭いつつ冷静になろうと試みたAさんに、天啓が閃いた。
あのババアを殺せばいいんだ。あいつは嫌な奴だし、それに弱そうだから多分簡単に殺せるはずだ。
思いついた途端、堪えようのない笑いが込み上げ、次の瞬間には大声で笑っていた。
ようやっと『何か』を殺せることに堪らない愉悦を感じながら、玄関を目指して走り出した。
※
Aさんはそのまま外に飛び出し、恐らくは私物であろう軽トラックの助手席側のドアを開け、何やら床下を探っているおばさんを見つけた。
奇声を上げながら全速力で駆け寄って行ったところ、それに気付いたおばさんは恐怖に引き攣った顔をしてトラックの中に飛び込み、ドアをロックした。
寸でのところで間に合わなかったAさんは運転席側に回りドアを開けようとしたが、間一髪おばさんがロックする方が早かった。
Aさんは、逃がしてなるものかとばかりに軽トラックの荷台に飛び乗った。
運転席に滑り込んだおばさんが車のエンジンを掛け、携帯電話に何かを怒鳴りながら急発進した。Aさんはバランスを崩し荷台から落下し、頭を強かに地面にぶつけた。
Aさんはその時、脳震盪を起こしたらしい。
何か生き物を殺したいと思いながら、体が思うように動かせない自分は何と不幸なのだろう…と地面に大の字になったまま、夕焼け空を睨んで男泣きに泣いた。
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それから暫くして、未だ動けないAさんは、おばさんからの電話を受けて駆けつけたらしい男数人に取り囲まれた。
体は動かないが、殺して良い生き物が近くに来たことで、Aさんはまた極度の興奮状態に陥った。
一番楽に殺せそうな年寄りが、Aさんに対して変な言葉を喚きながら、何だか臭い変な水を振り掛けた。
その瞬間、Aさんは自分が何をしているのか解らなくなり、一瞬にして眠りに落ちた。
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小さな診療所のベッドの上で目が覚めたAさんは、普段の落ち着きを取り戻していた。
警察官と、先の年寄りが部屋の隅に座っていた。警察官に訊かれるまま、Aさんは起こったことの全てを話した。自分が何故あんな風になったのか解らないとも伝えた。
Aさん自身ですら、自分がしたことや感じたことを信じられないのに、ましてや警官が信じてくれようはずもない。
逮捕されるのか…と半ば諦めたが、特に目に見える被害がなかったことから厳重注意で済んだ。
Aさんは、訳が解らないながらも何度も謝罪の言葉を伝えた。
別室に居たおばさんに謝罪しようとしたところ、おばさんから「それには及ばない」との言葉が返って来た。年寄りに至っては、何故か同情的ですらあった。
年寄りとおばさんとが事情を説明してくれたところによると、Aさんは『ムシャクル様』に祟られたとのことだった。
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『ムシャクル様』とはその地方の地域信仰の対象で、言うなればタタリ神に近いものらしい。
『ムシャクル様』の名前は、「武者来る」或いは「武者狂う」から来ており、これに祟られた者は『生き物を殺さなければならない』との強い強迫観念に縛られ、しばしば実際に殺してしまう。
この土地では、数年に一度『ムシャクル様』に祟られる者が出るという。祟られる人に共通点はなく、何らかの禁忌を犯したものか、人により故意に呪い掛けされたものかは分からないらしい。
Aさんに振り掛けた「臭い水」は、『ムシャクル様』を祀る祠の西側にある池の水だった。『ムシャクル様』に祟られた場合、その水を掛けることによって祟りを清められると伝えられている。
『ムシャクル様』に祟られた者には動物を投げつけ、その動物を殺している内に、池の水を汲んで来るしか対処法はないらしい(その際、より時間が稼げるよう、この地域には大型の動物をペットにしている家庭が多い)。
水を掛けた後、何らかの手段を用いて祟り憑きの意識を失わせ、その後目覚めさせることによってのみ正気に戻る。
それ以外の方法で抑え付けた場合、自分の手首を噛み切ったり、爪で太ももの内側の動脈を切ったりして自殺してしまうケースが多いらしい。
年寄りは「あんたには不運であったろうが、いつもの例から見ると今回は運が良かった」と何度も何度も呟いていた。
その後、Aさんは脳震盪検査の異常も見られなかったため無事退院し、そのまま札幌に帰って来た。
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Aさんが言うには、それ以来「音」が怖くて怖くて仕方がない。
足音や何かがジャンプするような音、家鳴り、水滴の音などが聞こえると、体中が震え上がってしまう。
いつまた自分がああなるか、自分の周りの人がいつああなってしまうかと思うと、怯えてしまって困ると言っていた。
その時、住職が何と言ったかは覚えていない。
普通に考えれば、「精神的な病ではないか」「ストレスへの防衛で怒りに転化したのではないか」などが考えられると思う。
しかし、僕にはこの話は勘違いや偶然とは言い切れない。
僕の母方の祖父が、似たような話をしていたことを知っているからだ。
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祖父は若い頃、友達とその恋人と三人で、恋人の故郷である中国地方のとある県に物見遊山に行ったことがある。
恋人の一族の墓参りを済ませ帰ろうとしていると、友人が便所に行った。そして便所から出るなり、待っていた祖父に殴り掛かって来た。
血の気の多かった祖父も即座に応戦し、両者血みどろになった(目突きや首締め、金的など、普段はそんなことをしない友人がダーティーテクニックばかりを使って来て、その殺気に驚いたらしい)。
その内、血相を変えた土地のお婆さんが駆けて来て、二人にべたべたする水をぶっ掛けた。
何をするんだと怒り心頭に発した祖父だったが、いつの間にか男たちに取り囲まれており袋叩きにされた。
恋人が周囲を走り回り、人を集めたものらしい。
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その後、友人がおかしくなったのは『ムタチクル様』の呪いのせいであり、二人とも暴れているから二人やられたのかと思った、こうするしかなかった、と言われたらしい。
『ムタチクル様』とは、「六太刀狂様」か「無太刀狂様」とでも書くのかもしれないと祖父は言っていた。ムシャクル様が転化したのか、祖父が聞き間違えたのか、記憶違いかは分からないが。
納得が行かない祖父が噛み付いたところ、「友人は誰かに怨まれており、これは恐らく人為的な呪いだ。今回は祓えたが、これ以上はどうすることも出来ない」と言われた。
祖父は何か言おうとしたが、思い当たることがあった様子の友人の手前、それ以上は何も言えなかった。
恋人は、顔面蒼白となっていた。
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友人の恋人には、かつて婚約者がいた。友人はそれを知りつつ近付いて、婚約者から女性を奪い取ったプレイボーイだった。
婚約者を奪われた男は、この村の出身だった。男は恋人を奪われたことで酷く落胆し、当時住んでいた兵庫県の住まいを引き払って北海道に移り住んだらしい。
そして北海道から友人に『ムタチクル様』の呪いを掛けたのではないか…とは、祖父の推測に過ぎない。
しかしその数年後、その友人は恋人を殺し逮捕された。無理心中を図ったとも、発狂したとも言われたそうだ。
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祖父は、僕の母が札幌出身の父に嫁いで北海道に移住することに最後まで反対していた。
また、とある県には絶対に足を踏み入れることもなかった。北海道のどこかと中国地方に人を呪い殺せる者が居ると祖父は信じていた。
Aさんは、今も生きている。