僕の町内には『アーちゃん』という人が住んでいた。
アーちゃんは年中、肌色の肌着と肌色のモモヒキを身に付け、パンクしてホイールの歪んだ自転車で町を走り回る、人畜無害の怪人だ。
年齢は僕が小学生の時で70歳くらい、試合後のボクサーみたいな顔をしている。
いつも酔っ払っているような動きと口調。
口癖は、
「ぼん、どこの子や」
僕は実際、これ以外の台詞を聞いたことが無い。
※
アーちゃんはその風貌からか、僕らの恐怖と嘲笑の的だった。
まず音。キーキー、ガタガタという自転車の音で、僕らはアーちゃんの接近を知る。
僕らは何食わぬ顔で、向こうからやって来るアーちゃんに近付く。
決まって自転車を止めるアーちゃん。僕らの顔を殆ど閉じた瞼で見渡す。
そしていつもの台詞。
「ぼん、どこの子や」
笑ったら負け。そして全力でダッシュ。大抵はみんなで爆笑しながら。
振り返ったことは無い。アーちゃんはどんな顔をしていただろうか。
※
それから時は流れ、僕はアーちゃんのことを忘れていた。
昨日、僕と友人は美術館に居た。ある作家の彫刻展だ。
友人は家具メーカーに勤める彫刻家の卵で、僕は時々彼に誘われてこういう所に来るのだ。
友人とは幼馴染で、親友でもある。
その友人と二人で美術館の駐車場で煙草を喫っていると、ボロボロのおじいさんに話し掛けられた。
「兄ちゃん、煙草くれへんか」
おじいさんは僕の差し出したセブンスターを、
「ええ煙草や」
と言いながら、実に美味そうに喫った。
別れ際、僕が十本ほど残ったセブンスターをあげると、ボロボロのおじいさんは僕と友人に向かって言った。
「ぼん、どこの子や」
※
帰りの車中で友人とアーちゃんの話をした。小学校での話。
一度アーちゃんのことが学校で問題になったことがある。アーちゃんが何かした訳ではない。
『アーちゃん』という呼び方が問題になったのだ。
アホのアーちゃん。アーちゃんのアーはアホのアーなのだ。
余所から引っ越して来た生徒の母親がPTAで騒いだらしい。
「ボクは別にいいと思うんやけどね」
と、担任は前置きしてから言った。
ハゲた額に長髪、髭ボーボー。父兄に人気は無かったが、僕はこの担任が好きだった。
「一応議題に挙がってるし」
自宅で猫を14匹飼っている担任は、アーちゃんを『本名』で『さん付け』で呼ぶように僕らに言った。
そこで未来の彫刻家の卵が手を上げた。
「僕らアーちゃんの本名を知りません」
猫のせいで近所とのトラブルが絶えず、引越しを考えている担任は面倒くさそうに答えた。
「じゃあ調べといて」
※
家に帰り、僕はまず母親に聞いてみたが、
「知りません」
と何故か怒られた。
隣のおばちゃんも知らなかったし、嫌な顔をした。
おじいちゃんならと思い祖父に聞いてみたが、
「アホのアーちゃんや~」
と嬉しそうに言うだけで、やっぱり知らなかった。
※
「今、考えるとさ」
友人は助手席で言った。
「名前が無いって凄いよな」
本当にその通りだ。僕らはアーちゃんのことを何も知らなかった。
アーちゃんというあだ名と、おそらくは根も葉もない数々の噂。
僕らのアーちゃんはそれだけで出来ていた。
※
アーちゃんはザリガニを採って食べる。
アーちゃんはカタツムリとか虫も食べる。
アーちゃんは野良犬や野良猫も食べる。
アーちゃんは野良猫、野良犬の駆除で市からお金を貰っている。
アーちゃんは昔、天才だった。
アーちゃんは腹が減ると飼い犬や飼い猫もさらって食べる。
アーちゃんには子供が居たが殺して食べた。
アーちゃんは本当は大富豪。
アーちゃんは…。
※
僕は友人と思い出せる限りのアーちゃんの噂を並べてみた。
今思えばただの笑い話だが、これらの噂の幾つかを僕らは信じていたし、これらの噂がアーちゃんへの恐怖の源だった。
そして普段のアーちゃんとのギャップが、僕らにはどうしようもなく可笑しかった。
誓って言うが、アーちゃんは本当に人畜無害で、少なくとも僕の知る限りアーちゃんが事件を起こしたことは無い。
ただ僕と友人はこれらの噂の中で一つだけ、事実を確かめたことがある。
僕と友人が高校生の時のことだ。
そしてそれが僕と友人の最後のアーちゃんの思い出だった。
※
友人は高校の時、町内のコンビニでアルバイトをしていた。
バイト中、偶にアーちゃんが来ることがあったそうだ。
アーちゃんは決まって大量の砂糖を買って行った。多い時で5kg、少なくても3kg。
暇を持て余していた僕は友人からこの話を聞いて、アーちゃんを尾けようと提案した。
友人も乗り気で、僕らは次の日、学校を休んで近所をぶらついた。
アーちゃんはすぐに見つかった。あの自転車に乗っている。
この時、僕は自分がアーちゃんのことを忘れ始めていたことに気が付いた。
「今思ったけど」
友人が言う。
「俺、アーちゃんの家知らんわ」
アーちゃんの家は、町を流れるドブ川の上に建っていた。
地面に乗っているのは3分の1くらいで、後は川にせり出している。本当に、本当に小さな小屋だった。
アーちゃんは路上(と言っても玄関を出てすぐ)で七輪を使いザリガニを焼いていた。
老人が路地でザリガニを焼く。シュールだった。
僕は何かあまり見てはいけないものを見た気がして、
「帰ろ」
と友人を促した。
その時、アーちゃんがこちらを見た。
「ぼん、どこの子や」
僕と友人は走って逃げた。
いつもの台詞、いつものダッシュ。ただ僕と友人は何故か笑えなかった。
辺りにはザリガニの焼ける、ドブ川のような臭いがしていた。
※
僕は二年ほど日本を離れていたことがある。
その間にアーちゃんは亡くなったそうだ。
アーちゃんは一人暮らしで身寄りも無く、葬式も何も無かったらしい。
その時、僕が近くに居たら、僕はどう思っただろうか。
子供の頃、大人がアーちゃんの話をしたがらない理由は判らなかったし、考えたことも無かった。
今なら解る。
アーちゃんをドブ川の小屋に住ませ、ザリガニを食べさせていたのは多分僕らだ。
誰かが僕にアーちゃんのことを聞いたとしたら、あまり良い顔は出来ないだろう。
じゃあ、どうすれば良かったのか、どうすれば良いのか。
PTAの言うように『本名』に『さん』を付ければそれで良かったのだろうか。
「アーちゃんみたいなのは『アリ』やな」
と言って、友人は車を降りた。
僕らは相変わらず考えが少し足りない。
僕はせめてアーちゃんのことをずっと憶えていようと思った。