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Nダムの呼び声 ― 異界へ続く裏道

きょうこさん

以前、霊感の強い女性と交際していたことがある。
ある日、彼女に何気なく尋ねた。

「これまでいろんな霊体験をしたって言ってたけど、本当に洒落にならないほど怖かったことってあるの?」

彼女は少し黙ってから、「あるよ」とだけ答えた。
その声の震えが、ただ事ではないことを物語っていた。

彼女が語ってくれたその話は、これまでに聞いたどんな怪談よりも恐ろしかった。

それは今から十九年前、某県の山中にある「Nダム」近くで実際に起きた出来事だという。

当時、彼女は家電量販店で働いており、その日は一人でテレビを配達していた。
たまたまその町には叔母が住んでおり、配達の前に立ち寄った。

ついでに配達先の場所を尋ねると、叔母の家から目と鼻の先だという。
配達は無事に終わり、帰る前に彼女は「隣のK市に寄って帰りたいんだけど、近道はある?」と叔母に聞いた。

叔母は、「Nダムのそばを通る裏道が一番早いよ」と教えてくれた。
彼女は礼を言い、その道へと車を走らせた。

その日の空は、昼間なのにどんよりと曇っていた。
彼女は気にも留めず、山中の細い道をひたすら走り続けた。

しかし、いつまで経っても山を抜けない。
舗装は途切れ、道幅は狭くなり、やがて車が一台やっと通れるほどのデコボコ道となった。

「おかしいな……道を間違えた?」
不安が胸をよぎったその時、前方に農作業帰りらしきお婆さんの姿が見えた。

「すみません、この道はK市に抜けられますか?」

「いや、この道は違うけぇ。この先に民家があるけぇ、そこの前が広うなっとる。そこでUターンしんさい。」

お婆さんは優しくそう教えてくれた。
彼女は礼を言い、指示された方向へ車を進めた。

しばらく進むと、お婆さんの言葉どおり、一軒の大きな屋敷が見えてきた。
山中に似つかわしくないほど立派な屋敷で、母屋のほかに納屋や倉まである。

彼女は屋敷の前でUターンしようとした。
その瞬間、車の窓の外に――さっき別れたはずのお婆さんが立っていた。

「……え?」

車で数分は走ってきた。歩いて追いつける距離ではない。
背筋に冷たいものが走ったが、彼女は恐怖を抑え、「先ほどはありがとうございました」と声をかけた。

するとお婆さんは微笑み、こう言った。

「せっかくだから、お茶でも飲んでいきんさい。」

なぜか断ることができず、彼女はまるで操られるように車を降りた。

お婆さんは家の中に向かって叫んだ。

「おじいさーん、きょうこさんが帰ってきたよー!」

彼女の名は“きょうこ”ではない。
混乱していると、家の中から白髪の老人が現れた。

「ああ、きょうこさん、よう帰ってきたねぇ。」

初対面のはずの二人が、自分を「きょうこ」と呼ぶ。
その時、母屋の奥からじっとこちらを見つめる視線を感じた。

彼女はおそるおそる縁側に腰を下ろした。

お爺さんは、にこにこしながら何度も同じ言葉を繰り返した。

「きょうこさん、よう戻ってきた。」

彼女はたまらず言った。

「いえ、私はただの通りすがりです。きょうこさんではありません。」

だが、お爺さんは聞いていないかのように、ゆっくりと首を傾げた。

次の瞬間、彼女の意識は途切れた。

気がつくと、仏間の畳の上に座っていた。
目の前にはさっきの老人が座っている。

「昼の間は他のもんは出払っとって、ワシ一人じゃけぇのう。」

不気味な沈黙を破るように、彼女は言った。

「そうなんですか。でも、納屋の方に誰かいませんでしたか?」

老人はゆっくりと答えた。

「あれは孫の子じゃ。結核を患うてのう……もう数のうちには入らん。」

その時、彼女の腕を冷たい小さな手が掴んだ。

驚いて見ると、三歳くらいの女の子が無表情に彼女を見上げていた。
どこから現れたのか分からない。

体が動かない。声も出せない。

老人が叫んだ。

「こら! この人はおまえのお母さんじゃあない!」

その瞬間、少女は豹変した。
目を真っ赤に光らせ、獣のように老人の首筋に噛みついたのだ。

悲鳴をあげようとしても、声が出ない。
見下ろすと、畳の中から無数の手が伸び、彼女の体を掴んでいた。

「きょうこさん、やっと帰ってきたんじゃねぇ……」
「もうどこにも逃げられんよぉ……」

囁くような声が足元から響く。

お爺さんの姿はいつの間にか、四十代ほどの男へと変わっていた。
その男は歪んだ笑みを浮かべて言った。

「きょうこさん、もう戻れんのんじゃけぇねぇ。」

その悪夢のような時間が終わったのは、男が急に立ち上がり、彼女の腕を掴んだ時だった。
男は無言のまま彼女を外へ引きずり出し、倉の前で立ち止まった。

倉の戸が開く。
中には古びた座敷牢があり、女が一人横たわっていた。

「こ、これは誰ですか!」

「誰って……おまえの妹じゃろうがぁ。」

男がニタリと笑った。

恐怖で我を忘れた彼女は、その隙をついて車へ駆け戻った。

エンジンをかけようとした瞬間、フロントガラスの前に再びあの老婆が立っていた。
手にはカラスの死骸。

「きょうこさん、あんたはもう、どこにも行かれんのんじゃけぇねぇ!」

老婆は叫び、死骸をガラスに叩きつけた。
彼女は泣き叫びながらそれを払いのけ、何度もキーを回した。

やがてエンジンが唸りを上げ、彼女は車を走らせた。

だが、地獄は終わっていなかった。

道はどんどん狭くなり、前方には見たことのない赤い橋が現れた。
車の横に、またあの老婆が立っている。

「戻れん言うたじゃろう。あの橋はあんたのために作ったんじゃけぇ、渡らにゃならんのよ。」

彼女は泣きながら後退した。
しかし、今度は老婆が逆さまに車のフロントガラスに張り付き、叫び続けた。

「逃がさんけぇねぇ! 逃がさんけぇねぇ!」

恐怖のあまりバックを続けると、再び前方に赤い橋が現れた。

その時、彼女の頭の中に懐かしい声が響いた。

「○○ちゃん! そっちへ行ったらいけんよ!」

幼い頃に亡くなった祖母の声だった。

次の瞬間、意識が遠のいた。

目を覚ますと、彼女は運転席にいた。
前方には見慣れたアスファルトの道が続いている。

ようやく、現実の世界へ戻ってきたのだ。

この話を聞いて、「作り話だろう」と思う人もいるだろう。
だが、これは彼女の実体験である。

しかも、その恐怖はそれだけでは終わらなかった。

帰宅後、彼女はふと運転免許証が無くなっていることに気づいた。
すぐに警察に行くと、幸運にも落とし物として届けられていた。

だが、受け取った免許証の顔写真を見て、彼女は絶句した。
そこに写っていたのは、自分ではない“別人”の顔だった。

警察の調査で分かったこと。
その顔の主は――彼女がテレビを配達した家の娘、「きょうこ」さんだった。

彼女は二年前、Nダム近くで交通事故により亡くなっていたという。

さらに後日、驚くべき事実が判明した。

きょうこさんの祖母は、彼女が訪れた家の一族にあたる人物で、その家――つまり、あの屋敷はすでにダムの底に沈んでいた。

彼女は最後にこう語った。

「この世界のどこかに、異界への穴が開いているのかもしれない。
何気ない日常のすぐ隣に――。」

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