
これは、私がまだ小学校に上がる前の、夏の終わりに体験した不思議な話です。
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その日、私は母方の祖父母が住む田舎の家で、昼寝をしていました。
何度も訪れていたはずの、馴染み深い家。
でも、目を覚ましたとき、胸の奥にひっかかるような違和感がありました。
喉が渇いていたはずなのに、先に「なにかがおかしい」と気づいてしまったのです。
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まず、仏間にあるはずのなかったおばあちゃんのベッドが、なぜかそこに移されていました。
さらに、縁側の突き当たりには、以前はなかった謎の扉が現れていたのです。
私はひとりぼっちでした。
おばあちゃんの姿もなく、セミの声も聞こえない。
祖父が大切にしていた小鳥も、小魚も、姿を消していました。
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客間に行ってみると、そこには今まで見たことのないガラスの食器棚。
中にはいくつものティーセットが、きれいに並べられていました。
私はただただ混乱しながら、昼寝していたお座敷に戻りました。
でも、そこにあったはずのタオルケットが消えていました。
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そのとき、玄関の引き戸から「トントン」と音がしました。
私は「おじいちゃんが帰ってきたんだ!」と嬉しくなり、急いで廊下へ出ました。
おじいちゃんは、いつも帰ってくると戸を軽く叩き、おばあちゃんに開けてもらうのが習慣でした。
鍵は掛かっていないのに、なぜか自分で開けず、必ず呼ぶのです。
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でも、そのときの引き戸のすりガラス越しに見えた人影は、どこかおかしかった。
頭が異様に大きく、首から下はひょろひょろと細長い。
私は恐怖で廊下に立ちすくみ、すぐにお座敷へ戻って襖を閉め、仏壇の前の座布団に頭を突っ込んで震えました。
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どれくらいそうしていたか覚えていません。
でも、次に目を覚ましたときには、『おつかいありさん』を大声で歌うおばあちゃんの声が響いていました。
おばあちゃんが歌うなんて珍しい。
それにも驚きましたが、もうひとつ。
私は仏壇のある部屋ではなく、縁側で寝ていたのです。
しかも、体にはあのなくなったはずのタオルケットがかけられていました。
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おばあちゃんは「アイス食べるか?」と声をかけてきました。
起き上がった私は、縁側の突き当たりに扉があるのを見て、大泣きしてしまいました。
おばあちゃんは、
「ママは結婚式で遠くに行ったのよ」
「◯◯ちゃんは、お留守番できるって言ってたじゃない」
と私をなだめました。
でも私が怖かったのは、「お留守番」ではありませんでした。
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私は客間に駆け込んで、ティーセットの並んだ食器棚を見てさらに混乱し、食堂のテーブルの下に潜り込みました。
おばあちゃんは根気よく私を慰めて、ようやくアイスを食べさせてくれました。
その冷たさだけが、少しだけ安心感をくれました。
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夜になりました。
またしても玄関の戸が「トントン」と音を立てました。
おばあちゃんと一緒に廊下に出た私は、ふたたびあの異様なシルエットを目にしました。
頭の大きな二つの影。
手足をぐにゃぐにゃと不自然に動かしながら、戸の向こうで蠢いていました。
私は逃げるように、再び食堂のテーブルの下へ潜りました。
でも、今度は引き戸が開く音がしました。
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おばあちゃんが言いました。
「◯◯ちゃん、お迎えが来たよ。おじいちゃんとお父さんだよ」
私は恐る恐る玄関へ向かいました。
そこにいたのは、まるで人間の顔ではない、大きな黒目だけが描かれた“だるま”のような顔を持つ、白い服のふたり。
彼らは夏なのに、長袖長ズボンを着ていました。
私は再びテーブルの下に逃げ込みました。
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そのとき、おばあちゃんが「遅くなってごめんね」と言う、ひとりの女性を連れてきました。
その女性は母にそっくりでした。
でも、何かが違いました。
末っ子の母に双子はいないはずなのに、その女性はまるで“母の影”のように見えたのです。
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その女性に手を引かれて、私は当時住んでいた都市のアパートへ戻りました。
でも、そこには見覚えのない巨大な扇子が飾られ、「反省部屋」と呼ばれる見知らぬ部屋までありました。
そこに閉じ込められたこともありました。
けれど、父は記憶にあるままの顔で、少し安心しました。
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高校を卒業する頃には、祖父母はすでに他界していました。
私は県外の大学に進学し、家を出ました。
以降は父・母・妹との暮らし。
でも、ある年の春。
母から「祖父母の家を片づけた」と電話があり、
「客間にあんな食器棚あったかしら?ティーセットなんて誰が使うのよ」
と不満を口にしました。
私はぞっとしました。
あの食器棚とティーセットは、私だけが知っているはずの“異界”の記憶だったからです。
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その年のGWに帰省しました。
昔と今の母の違いは、すでに曖昧になっていました。
でも、妹はこっそりとこう言いました。
「ママ、お姉ちゃんがいなくなってから変わっちゃった。なんか、別の人みたい」
私は「どういうふうに?」と訊ねましたが、
「なんとなく、違う人のような気がするだけ」
と、あいまいな返事でした。
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帰る日の昼食中。
私は母に尋ねました。
「おじいちゃん、小鳥とか魚、飼ってたよね?」
すると母は、にっこり笑ってこう言いました。
「昔から、そういう“何が可愛いのか分からない”ものを飼うのが好きだったのよ。鳥屋敷にしたこともあったくらい」
その時、私は確信しました。
この母は、かつての母に“戻った”のかもしれない。
でも、妹を生んだ“あの母”は──今、どこにいるのか。
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あの夏、私は確かに“異界”に踏み込んでしまった。
そして、あの家にあった「扉」は、いまだに、どこかに繋がっている気がしています。