
これは、もう何年も前の出来事になる。
当時、私はある会社の社員寮に入っていた。夏の終わり頃のことだった。その年に新たに採用された新入社員4人が、休日に連れ立って海水浴へ出かけた。
だが、悲劇が起きた。
そのうちの2人が、海で波にのまれて行方不明になったのだ。
正確に言えば、1人は3日後に、もう1人は5日後に遺体で発見された。だが、その夜はまだ彼らの生死は不明で、ただ「行方不明」としか伝えられていなかった。
社員寮は、騒然となった。
波に飲まれずに戻ってきた残りの2人も、そのまま寮には帰ってこなかった。
不安と緊張の夜が訪れる中、私もその晩、トイレに行くために廊下を歩いていた。
※
そのとき、廊下の向こうから声がかかった。
「先輩」
ふと見ると、Aが立っていた。新入社員の1人で、いつも礼儀正しく明るい青年だった。
彼は私の方に歩み寄り、真剣な表情でこう言った。
「ロッカーの上の棚、ヤバいんすよ。お願いしますよ」
意味がわからず、「は? お前何言ってんだ?」と問い返すと、彼はまた同じことを繰り返した。
「ロッカーの上、マジでヤバいんです。お願いしますよ」
そして、「じゃあ、頼みます」と言い残して、自室へと戻っていった。
私は「寝ぼけてるのか?」と訝しみつつ、そのままトイレへ向かった。
※
そして――その瞬間、思い出したのだ。
Aは、今日の昼間、海で波にのまれたうちの1人ではなかったか?
私は立ちすくんだ。自分の背中を冷たい汗が流れ落ちていくのを感じた。
恐怖というより、理解が追いつかない感覚。言葉の意味も、現実の輪郭も曖昧になった気がした。
※
その後、正式に2人の遺体が発見されたという連絡が入り、会社として葬儀にも上司が参列することになった。
我々社員は、彼らのご両親が荷物を引き取りに来るまでに、それぞれの部屋の片付けを任された。
私はAの部屋の片付けを担当した。
部屋に入って彼の持ち物を整理しているうちに、あの夜の出来事が頭に浮かび、ふと思い立って、ロッカーの上の棚を覗いてみた。
そこには、数冊のエロ本と数枚の写真が置かれていた。
写真には、Aが外国人女性と親しげに写っている姿が映っていた。
※
Aには大学時代から交際していた彼女がいて、仕事に慣れたら結婚する予定だと話していた。
その彼女の写真を一度だけ見せてもらったことがあるが、確かに彼女は日本人だったし、この写真に写っている女性とは全くの別人だった。
おそらく――浮気。
彼は、その証拠を家族の目に触れさせたくなかったのだろう。
あの夜、私に「ロッカーの上を頼む」と言った理由は、それだったのだと悟った。
私は一緒に片付けをしていた同僚に気づかれないよう、ロッカーの上にあった物をそっと自分の部屋に持ち帰った。
後日、エロ本は自分のものとしてさりげなく捨て、写真は念のため、近くのお寺に持参して供養してもらった。
※
こうやって文章にしてみると、なんだか全く怖さの伝わらない話かもしれない。
だが、あの夜、Aが「生きているはずの人間」として話しかけてきた時の違和感と、トイレでその事実に気づいた瞬間の背筋を這うような寒気は、今でも忘れられない。
あれは、確かに彼自身が最後に遺した「お願い」だったのだろう。
幽霊と呼ぶべきか、想念と呼ぶべきかはわからない。
でも、あの夜の「A」は、きっと本気で頼んでいた。
だから私は、彼の最期の言葉に、静かに応えたのだった。