私が京都は東山にあるその営業所に移動になったのは、春先の桜が満開の季節でした。
小さな営業所ではありましたが仕事は多く、音を上げずに勤めていられるのは、ただ同僚の方たちの人柄ゆえでした。
その日も残った仕事がなかなか片づかず、時間も既に夜半を過ぎ。
私はKさんという私より3つほど年上の男性に、アパートまで送ってもらうことになりました。
Kさんは真面目で無口ではありますが、人に緊張感を与えないタイプで、私もどちらかと言うとのんびりした性格でありますから、ふたり気兼ねなく夜道を歩いて行きました。
桜の季節、道はうす桃色の花びらを敷き詰めた如くで、また、ふわりと白い花片が目の前を舞い降りてゆきます。
時間帯が時間帯だけに、浮かれ騒ぐ気配はあたりに見られず、とにかく静かで美しい風景に、私はすっかり魅せられてしまいました。
※
途中、小さな石橋を渡った時、何かどうにも嫌な気配と申しましょうか、何とも言い難い感覚を背中に感じ、よせば良いのに私は振り向いてしまったのです。
空には巨大な女の顔が広がっていました。
春の薄ぼんやりとした白い雲は月に照らされ、桜色の山肌は巨大な女の口でした。
その無表情なそれは、去年亡くなった私の母の顔なのでした。
「お母さん…」
私が思わず呟くと、やや先を行っていたKさんがびくりと肩を震わせました。
「見たんだね?」
「ええ」
「…ここで振り向くと、心の底にある女性の顔が見えるんです。そう言われています」
「あなたは振り向いた事があるの?」
「ええ。一度だけ」
私はKさんの奥さんが自殺だったことを思い出しました。
Kさんの奥さんはノイローゼに苦しんだ末、自宅の梁にロープをかけて縊死していたそうです。
そして、第一発見者はKさんでした…。
ふと見ると、橋のたもとには『面影橋』という文字を微かに読むことが出来ました。