サイトアイコン 怖い話や不思議な体験、異世界に行った話まとめ – ミステリー

千仏供養(長編)

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大学一回生の春。僕は思いもよらないアウトドアな日々を送っていた。それは僕を連れ回した人が、家でじっとしてられない性質だったからに他ならない。

中でも特に山にはよく入った。うんざりするほど入った。僕がオカルトに関して師匠と慕ったその人は、何が楽しいのか行き当たりばったりに山に分け入っては、獣道に埋もれた古い墓を見つけ手を合わせる、ということをライフワークにしていた。

“千仏供養” と本人は称していたが、初めて聞いた時には言葉の響きからなんだかそわそわしてしまったことを覚えている。

実際は色気も何もなく、営林所の人のような作業着を着て首に巻いたタオルで汗を拭きながら、彼女は淡々と朽ち果てた墓を探索して行った。

僕は線香や落雁、しきびなどをリュックサックに背負い、体の良い荷物持ちとしてお供をした。

師匠は最低限の地図しか持たず、本当に直感だけで道を選んで行くので何度も遭難しかけたものだった。

三度目の千仏供養ツアーだったと思う。少し遠出をして、聞き慣れない名前の山に入った時のことだ。

山肌に打ち捨てられた集落の跡を見つけて。師匠は俄然張り切り始めた。

「墓があるはずだ」と言って。

その集落のかつての住民たちの生活範囲を身振り手振りを交えながら想像し、地形を慎重に確認しながら「こっちが匂う」などと呟きつつ山道に分け入り、ある沢のそばにとうとう二基の墓石を発見した。

縁も縁もない人の眠る墓に水を掛け、線香に火をつけ、持参したプラスティックの筒にしきびを挿して、米と落雁を供える。

「天保三年か。江戸時代の後期だな」

手を合わせた後で、師匠は墓石に彫られた文字を観察する。苔が全面を覆っていて、文字が読めるようになるまでに緑色のそれを相当削り取らなくてはならなかった。

「見ろ。端のとこ。欠けてるだろ」

確かに墓石のてっぺんの四隅がそれぞれ砕かれたように欠けている。

「地位や金銭に富んだ人の墓石の欠片をぶっかいて持っていると、賭けごとにご利益があるらしいぞ」

師匠はポシェットから小ぶりなハンマーを取り出してコツコツと、欠けている端をさらに叩き始めた。

「ここは土台もしっかりしてるし、石も良い物みたいだ。きっと土地の有力者だったんだろう」

「でも、いいんですか」

見ず知らずの人の墓を勝手に叩くなんて。

「有名税みたいなもんだ。あの世には六文しか持って行けないんだから、現世のものは現世に、カエサルのものはカエサルに、だ」

適当なことを言いながら師匠は大胆にもハンマーを振りかぶり、砕けて落剥したものの内、ひときわ大きな欠片を「ほら」と僕にくれた。

気持ちの悪さより好奇心の方が勝って、僕はそれを財布の中に収める。やがて夏を迎える頃にはそんな石で財布がパンパンになろうとは、まだ思ってもいなかった。

「もっと古いのもあるかも」

師匠はその二基の墓を観察した結果、少なくともその先代も負けず劣らずの有力者であり、その墓が近くに残っている可能性があると推測し、再び探索に入った。

しかしこれが頓挫する。

日が暮れかけたころ、沢に向けてかつて地滑りがあったと思われる痕跡を見つけただけで終わった。そこに墓があったかどうかは定かではない。

師匠は悔しそうな顔をして地滑りの跡をじっと見つめていた。その時だ。僕と師匠の立っている位置のちょうど中間の地面の落ち葉が鈍い音と共にパッと宙に舞った。驚いてそちらを見ると、続けざまに自分の足元にも同じ現象が起きた。

「痛!」

師匠が右のこめかみのあたりを手で押さえる。

石だ。石がどこかから飛んできている。気づいてすぐに周囲を見渡すと、果たして犯人はいた。

沢の向こう岸の斜面に猿が一匹座っている。こちらの視線に気づいて、歯茎を剥き出して唸っている。怒っているというより、せせら笑っているような様子だった。

そして地面から手ごろな石や木片を掴むと力任せにこちらに投げつけてくる。遊んでいるというには強烈な威力だ。小さなニホンザルと言っても木から木へ両手だけで移動できる腕力だ。

僕は身の危険を感じて逃げ出そうとした。しかし師匠は一言「痛いんだけど」と口にすると、次の瞬間、沢へ向かって駆け出した。

「なんだお前はこらあ」と叫びながら斜面を滑り降り、ズボンが濡れるのも構わずバシャバシャと水をはねながら沢を渡り始める。

止める暇などなかった。

猿のイタズラにブチ切れた師匠が相手を襲撃するという凄い絵面だ。猿も沢の向こう側の安全地帯から一方的に人間を攻撃しているつもりが一転、身の危険を感じたのか、掴んでいた石を投げ捨てて威嚇するような奇声を発した後、斜面を登って木立の中へ逃げ込んだ。

師匠も負けじと奇声を発しながら沢を渡り切り、斜面を駆け上って木立の中へ飛び込んで行った。

僕は思わずその斜面の上を見上げるが、鬱蒼と茂った木々が小高くどこまでも続いている。猿を追いかけて獣道もない山の奥へ分け入るなんて、正気の沙汰じゃない。

止めるべきだったと思ったがもう遅い。師匠の名前を呼びながら、戻って来るのをただ待っているしかなかった。

猿なんだぜ。猿。

そんなことを呆然と再確認する。素手の人間が山で猿を追いかけるなんてありえないと思った。

それにあんな深い山の道なき道を走るなんて、崖から落ちたり尖った竹を踏み抜いたり、考えるだに恐ろしい危険が満載のはずだった。

自分も沢を渡り、居ても立ってもいられない気持ちでうろうろと周囲を歩き回り続け、小一時間経った頃、ようやくガサガサと斜面の向こうの茂みが動き、師匠が姿を現した。

全身に小枝や葉っぱが絡みついている。

バランスを取りながら斜面を滑り降りる様子を見た瞬間に、僕は「大丈夫ですか」と言いながら近づいていった。

師匠は「逃げられた」と言って顔をしかめている。何度か転んだのか服は汚れ、顔にも擦り傷の痕があった。しかし右腕を見た時には、思わず「だから言ったのに!」と言ってもいないことを非難しながら駆け寄った。

師匠は暑いからと上着の袖を捲り上げていたのだが、その剥き出しの右腕の肘から下にかけてかなりの血が滴っているのだ。

新しいタオルをリュックサックから取り出してすぐに血を拭き取る。師匠はその血に気づいてもいないような様子で、いきなり手を取った僕を邪険に振り払った。

「なんだおい。大丈夫だよ」

「大丈夫なわけないでしょう」

とにかく傷の様子を確かめようと、もう一度無理やり腕を掴む。

あれ?

傷が……ない。

顔にもあるような擦り傷くらいしか。

呆然とする。

だったらこの血は?

拭ったタオルにはべっとりと血がついている。見間違いではない。

「大丈夫だって言ってるだろ」

師匠は乱暴に腕を振り払うと捲り上げていた袖を元に戻し、沢を渡り始めた。僕はしばらくタオルの血と師匠の背中を見比べていたが、やがて「見なかったことにしよう」と結論付けて手の中のタオルを投げ捨てた。考えるだに恐ろしいからだ。

そして「待ってください」とその背中を追いかける。師匠はまだまだやる気満々で、それから日が完全に暮れるまでにさらに二箇所で墓を発見した。

山歩きに慣れた人の後ろをついて行くだけで僕は息が上がり「もう帰りましょう」と何度も訴えたが、そんな言葉など無視して「こっちだ」と道なき道を迷わず進まれると、溜め息をつきながら追いすがらざるを得ないのだった。

山道の傍で見つけた最後の墓は墓名もなく、小さめの石を二つ重ねただけのもので、そうと言われなければ気づかなかったに違いない。

師匠は手を合わせたまま呟いた。

「こんな小さなみすぼらしい墓を見るとさ、なんか嬉しくなるな」

「なぜです」

意外な気がした。

「金が無かったのか、縁が無かったのか……。もしかしたら名前も付けられないまま死んだ子どもだったのかも知れない」

「きちんとした墓を建ててもらえなかった人のことが、なぜ嬉しくなるんです」

師匠は静かに顔を上げる。

「それでも、その人がいたという証に、こんな小さな墓が残っている」

苔むした石の台座に線香が二本。煙がゆったりと立ち上っている。師匠は腕を伸ばし、線香に水を掛けた。

「こうして手を合わせる人だって、気まぐれにやってくる」

さあ、帰ろうかと言って立ち上がった。僕も慌ててリュックサックから出したものを片付ける。

帰り道は真っ暗で、持参していた懐中電灯をそれぞれ掲げた。来た時とは違う道だ。師匠は近道のはずだと言う。

足元にも気を付けつつ、師匠の背中を見失わないように見通しの悪い下り坂を慎重に歩いたが、心はさっきの小さな墓に繋ぎ止められていた(その人がいたという証か……)。

『死は死を死なしむ』という言葉がふいに浮かんだ。誰かの詠んだ歌だったか。

人が死ぬということは、その人の心の中に残っているかつて死んだ近しい人々の記憶がもう一度、そして永遠に揮発してしまうということだ、という意味だったと思う。

さっきの墓の主も、きっともう何の記録にも、そして誰の記憶にも残っていないだろう。

それでも石は残る。

その意味を考えていた。

ぼうっとしていると、師匠の声が遠くから聞こえた。

「おい」

我に返ると、師匠が道の途中で立ち止まり、藪の切れた脇道の方に懐中電灯を向けていた。

「どうしたんです」

横顔が心なしか緊張しているように見える。

「自殺だ」

「えっ」

驚いて駆け寄る。

草が生い茂り、一見しただけは道だと思わないような場所に、誰かが通ったような痕跡が確かにある。

踏まれて倒れた草の向こうに懐中電灯を向ける。師匠と僕の二つの光が交差し、照らし出される先には宙に浮かぶ人影があった。

首吊りだ。

思わず生唾を飲み込む。

窪地の木の下に人がぶらさがっている。

ガサリと音がして、横にいた師匠がそちらに向い動き出す。止める間もなかった。僕は一瞬怯んだ。ひと気のない夜の山中に、人の形をしたものが人工の明かりに照らされて空中にある、ということがこれほど怖いものだとは。

まだしもぼんやりとした霊体を見てしまったという方がましな気がした。それでも師匠の背中を追って足を踏み出す。軽い下り坂になっている。青っぽいポロシャツにジーンズという服装がほぼ正面に現れる。その姿が後ろ向きであることに少しホッとした。

さらに坂を下り近づいて行くと、かなり高い位置に足があることに気づく。背伸びをしても靴に手が届かない。

死体のベルトの位置に、張り出した枝が一本、きっとあそこまで木登りをして枝に足をかけた状態から落下したのだろう。

恐れていた匂いはない。春とはいえこの気温の高さだから、二、三日も経っていれば腐敗が進んでいるはずだ。首を吊ってからそれほど時間が経っていないのかも知れない。

だがシャツから出ている手は嫌に白っぽく、血の通った色をしていなかった。師匠は前に回り込んで、首吊り死体の顔のあたりに懐中電灯を向けている。そして「おお」という短い声を発して気持ち悪そうに後ずさった。

僕は同じことをする気にはなれず、その様子を見ているだけだった。やがて一頻り死体を観察して満足したのか、師匠は変に弾んだ足取りでその周囲をうろうろと歩き回り始めた。

「下ろしてあげた方がいいでしょうか」

僕はそう言いながらも、あの高さから下ろすのはかなり難しそうだと考えていた。高枝切バサミかなにかでロープを切るしかなさそうだ。

「まあ待てよ」

師匠はなにか良からぬことを企んでいるような口調で、腰に巻いたポシェットの中を探り始めた。

さっきまで見ず知らずの人の小さな墓に手を合わせていた人間と同一人物とは思えない態度だ。この二面性が、らしいといえばらしいのだが。

「お、偉い、自分。持って来てた」

おもちゃの様な小さなスコップが出てきた。師匠はそれを手に首吊り死体の真下のあたりにしゃがみ込む。

そして右手にスコップを振りかざした状態でくるりと首だけをこちらに向ける。

「面白いことを教えてやろう」

その言葉にぞくりとする。腹の表面を撫でられたような感覚。

ズクッ、と土の上にスコップが振り下ろされる。落ち葉ごと地面が抉られ、立て続けにその先端が土を掘り返していく。

「こんぱくの意味は知っているな」

手を動かしながら師匠が問い掛けてくる。

魂魄? 魂のことか。

確か『魂(こん)』の方が心というか、精神の魂のことで、『魄(はく)』の方は肉体に宿る魂のことだったはずだ。

そんなことを言うと、師匠は「まあそんな感じだ」と頷く。

「中国の道教の思想では、魂魄の『魂』は陰陽のうちの陽の気で、天から授かったものだ。そして『魄』の方は陰の気で、地から授かったもの。どちらも人が死んだ後は肉体から離れていく。だけどその向かう先に違いがある」

口を動かしながらも黙々と土を掘り進めている。僕はその姿を、少し離れた場所から懐中電灯で照らしてじっと見ている。師匠の頭上には山あいの深い闇があり、その闇の底から人の足が悪い冗談のようにぶらさがって伸びている。

寒気のする光景だ。

「天から授かった『魂』は、天に帰る。そして地から授かった『魄』は地に帰るとされている。現代の日本人はみんな、人が死んだ後に、魂が抜け出て天へ召されていくというテンプレートなイメージを持っているな。貧困だ。実に」

何が言いたいんだろう。ドキドキしてきた。

「別に『人間の死後はこうなる』って話をしたいんじゃないんだ。ただ、経験でな。何度かこういう首吊り死体に出くわしたことがあるんだ。そんな時、いつもある現象が起こるんだよ。それがなんなんだろうと思ってな」

スコップを振る腕が力強くなってきた。

「同じ首吊りでも室内とか、アスファルトやらコンクリの上だと駄目なんだよな。だけどこういう……土の上だと、たいてい出てくるんだ。死体の真下から」

ひゅっ、と息が漏れる。

自分の口から出たのだとしばらくしてから気づく。さっきまで汗にまみれていたのが嘘のように、今は得体の知れない寒気がする。

「お。出たぞ。来てみろ」

師匠がスコップを放り投げ、地面に顔を近づける。なんだ。何が土の下にあるというのだ。

動けないでいる僕に、師匠は土の下から掬い上げたなにかを右の手のひらに乗せ、こちらに振り向くや、真っ直ぐに鼻先へつきつけてきた。

茶色っぽい。なにかとろとろとしたもの。指の隙間からそれが糸を引くようにこぼれて落ちて行く。

「なんだか分かるか」

口も利けず、小刻みに首を左右に振ることしかできない。

「私にも分からない。でも、首吊り死体の下の地面にはたいていこれがある。これが場所や民族、人種を超えて普遍的に起こる現象ならば、観察されたこれにはなにか意味があるものとして理由付けがされただろうな。……例えば、『魄』は地に帰る、とでも」

とろとろとそれが指の間からしたたり落ちていく。まるで意思を持って手のひらから逃れるように。

「日本でもこいつの話はあるよ。『安斎随筆』だったか『甲子夜話』だったか……。首吊り死体の下を掘ったらこういうなんだかよく分からないものが出てくるんだ」

師匠は左目の下をもう片方の手の指で掻く。嬉しそうだ。尋常な目付きではない。僕は自分でも奇妙な体験は何度もしたし、怪談話の類はこれでも結構収集したつもりだった。なのにまったく聞いたこともない。想像だにしたことがなかった。首吊り死体の下の地面を掘るなんて。

なぜこの人は、こんなことを知っているんだ。

底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じったような感情が渦巻く。

「ああ、もう消える」

手のひらに残っていた茶色いものは、すべて逃げるように流れ落ちてしまった。手の下の地面を見ても、落ちたはずのその痕跡は残っていない。どこに消えてしまったのか。

「地面から掘り出すと、あっと言う間に消えるんだ。もう土の下のも全部消えたみたいだ」

師匠はもう一度スコップを手にして土にできた穴の同じ場所に二、三度突き入れたが、やがて首を振った。

「な、面白いだろ」

そう言って師匠が顔を上げた瞬間だ。

強い風が吹いて窪地の周囲の木々を一斉にざわざわと掻き揺らした。思わず首をすくめて天を仰ぐ。

ハッとした。心臓に楔を打ち込まれたみたいな感覚。地面に向けている懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされて、宙に浮かぶ首吊り死体の足先が見える。

朽ちたようなジーンズと、その下の履き古したスニーカーが先端をこちらに向けている。さっきまで、死体は背中を向けていたはずなのに。

懐中電灯をじわじわと上にあげていくと、死体の不自然に曲がった首と、俯くように垂れた頭がこちらを向いている。

髪がボサボサに伸びていて、真下から覗き込まないと顔は見えない。風か。風で裏返ったのか。背筋に冷たいものが走る。

首を吊ったままの身体は、その手足が異様に突っ張った状態で、頭部以外のすべてが真っ直ぐに硬直している。

風でロープが捩れたのなら、また同じように今度は逆方向へ捩れていくはずだ。そう思いながら息を飲んで見ているが、首吊り死体は垂直に強張ったまま動く気配はなかった。

その動く気配がないことが、なにより恐ろしかった。僕の感じている恐怖に気づいているのかいないのか、師匠はこちらを向いたまま嬉々とした声を上げる。

「どっちだろうな」

そう言ってニコリと笑う。

どっちって、なんのことだ。天を仰いでいた顔をゆっくりと師匠の方へ向けていく。首の骨の間の油が切れたようにギシギシと軋む。

「誰かが首を吊って死んだから、さっきのへんなものが土の下に現れるのか。それとも……」

師匠はそう言いながら自分の真上を振り仰いだ。そして頭上にある死体の顔のあたりを真っ直ぐに見る。視線を合わせようとするように。

「あれが土の下にあるから、人がここで首を吊るのか」

なあ、どっちだ。

そう言って死体に問い掛ける。

肩が手の届く位置にあれば、親しげに抱いて語り掛けるような声で。

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