子供の頃に住んでいた家は、現在住んでいるところから自転車でわずか5分程度。
近所に幼馴染みも沢山いたし、自分とはもう関係ない家だという認識があまりなかった。
自分たちが引っ越した家はしばらくは空き家になっていたけど、暫くしたら若い夫婦が入居して、お門違いにも、自分の家を取られた心境になってました。
それから暫くして、その若い夫婦も転居してしまい、私の元家は、またしても空き家に。この時、うっかり出来心を起こしてしまいました。
私は自分の元家に忍び込んだんです。昔寝室に使っていた部屋の柱には、私がまだ片言も話せない頃に描いた落書きがある筈で、どうしてもそれを見たかったんです。
引っ越したのは小2、忍び込んだのは高2の時です。
私はどこか鍵が開いていないか探りを入れ、居間の小窓の鍵が甘くなっている事に気が付きました。よじ登って鍵をこじ開け、私は居間に侵入しました。
居間の隣の部屋が寝室です。私はドキドキしながら柱を見ましたが、しかし私が昔に描いた絵は消されていました。よく考えたら絵はクレヨン画だったんです。
消そうと思えば容易に消せる訳で、引っ越しの時にうちの両親が消したのかも知れないし、若夫婦が消したのかもしれませんでした。
そうしてそこに至り、私が初めて思い出した事があります。
私は知っていたんです。若夫婦がこの家から転居した理由を。
いいえ、転居したのは若夫婦の内の旦那さんの方だけです。奥さんは、この家の居間で、ある日眠ったまま、二度と起きる事はなかったんです。
死因が判らず当時話題になっていた事を私は知っていたのに…。薄暗がりの空き家は、それでも私にとっては幼少時代を過ごした懐かしい家でした。
ですが、私がずっと心に記憶していた落書きは既に無く、すぐ隣の居間で奥さんが眠ったまま死んでしまった事を思い出し、急にぞっとしたんです。
なんで私はこんな所にいるんだろうかと、真剣に背後が気になりだしました。
居間から寝室へと忍び込みましたが、その更に奥には、内側の鍵をひねるだけですぐに外に出られる子供部屋がありました。
私は慌ててそちらへ行き、さっさと逃げだそうとしたんです。内鍵をひねろうとして、しかしそこでハタと気が付きました。
こんな場所の鍵が開いていたら、浮浪者が入り込みかねない。そうしたら周辺に迷惑がかかる、と。私は泣く泣く子供部屋から寝室、居間へと引き返しました。
泣きそうでした。今思い出してもぞっとします。
私は亡くなった奥さんがまだ生きていた頃、庭で洗濯物を干している姿を見た覚えがあります。髪型と、その全体的な雰囲気はうっすらと覚えているのに、顔は全く思い出せません。
だから、イメージの中の彼女はのっぺらぼうです。
自分の家でもない家の中で、隣の部屋でこの奥さんが亡くなったのだと思い出した時、私のイメージでは、今と寝室を区切る扉を半分開け、突然の侵入者たる私を覗き込んでいるのっぺらぼうの奥さんの姿なんです。
背後が寒かったです。子供部屋の鍵が開いていようとも、居間の鍵を開けてしまったのなら同じ事…なのかも知れませんが、それが私に出来る精一杯でした。
居間の小窓はもともと鍵が甘かったし、よじ登らなくては入れないような場所でしたので、もしも何かあったとしても私だけの責任とは言えないなどと、訳の分からない理屈を胸に、そのまま私は逃げ出しました。