先週の金曜、会社の先輩の大村という男が死んだ。
もちろん直接現場を見た訳ではないけど、マンションの自室で、自分の両耳にボールペンを突き刺して死んでいたらしい。
大村自身の手がペンをギュッと握り締めていたというので、警察も事件性は認めずに、すぐに自殺だと判断した。
会社の連中は、そんな大村の死に様を随分不思議がったりしていたけど、俺は特に驚きもしなかった。
それでも司法解剖がどうしても必要らしく、多分、大村の身体は詳しく調べられたのだと想像している。
判り切っていることを調べるために身体を弄り回されるなんて、ちょっと気の毒だと思う。
すぐに通夜があって、同じ課の奴らは課長を先頭に連れ立って公共斎場に行ったらしいけど、俺だけは「どうしても外せない用事がある」と課長に断って直帰した。
周りから見たら不自然だっただろうとは思うけど、通夜なんていう湿っぽくて皆が押し黙っているような空間には、今は堪えられそうにないから。
大村と俺とは、先輩後輩ということとはあまり関係なく、仲が良かった。
お互いに相手のマンションの所在地を知っていたと書けば、どの程度の仲だったかは伝わるかなと思う。
※
3週間くらい前のあの日も、大村が会社帰りに俺の部屋に遊びに来ていた。
俺らは缶ビールを飲みながら、同僚の陰口ばかり叩いていた。
二人とも、酒を飲む時は会話だけを楽しみたいというタイプだったから、テレビも点けていなかったし、音楽を流したりもしていなかった。我ながら暗いとは思うけど。
その内、買い溜めてあったビールが尽きた。
俺はアルコールが無くても会話が楽しければ良いと思っていたんだけど、大村はそれじゃ駄目みたいだった。「すぐに買いに行こう」と言い出す。
渋々ながらも、大村を連れてマンションを出て、近所のスーパーに買い出しに行った。
※
店に入るとすぐに大村が「おい、何だよ、あれ」とニヤニヤしながら聞いてきた。
指差す先を見ると、ボサボサの髪を腰まで垂らした女が、買い物カゴをぶら下げて野菜を選んでいた。
別に何の変哲もない、よくある光景だ。
ただ一つ変わっているとしたら、女が大声で笑っていることだけ。
レタスを手に取りながら、「いひゃっいひゃっいひゃっ」と笑っているだけ。
それすらも、俺にしてみればやっぱり何の変哲もない、よくある光景だ。
「ああ、あれ。笑い女だよ」
※
説明しておくと、笑い女は近所では有名な人物。
パッと見にはごく普通の若い女で、取り立ててどうこう言うべきところもない。
確かに、腰まである髪は痛み切っていてボサボサだけど、そんな女はどこに行ってもいると思う。
ただ、笑い女の変わっているところは、その呼び名通りに、いつも笑っているところ。
「いひゃっいひゃっいひゃっ」という、何かから空気が漏れるような、それでいてちょっと湿った感じの独特な笑い声を撒き散らして、口の端から涎を垂らしている。
だからみんな『笑い女』とか、レジ打ちのおばちゃんも『お笑いさん』とか呼んでいる。
ただそれだけの存在だ。
キチガイ風でもあるけど、笑い声さえ気にしなければ、誰に迷惑を掛ける訳でもないから、周りはあまり気にしない。
気にしたとしても、『嫌な物を見た』と少しの間思うだけで、すぐに見て見ぬふりをする。
※
今になって思えば、その時の大村はかなり酔っていたんだと思う。
「ちょっと、からかって来るわ」と言って、笑い女に近寄って行った。
俺も酔っていたんだと思う。何しろ、大村のことを止めようとはしなかったから。
「なぁ、おい、アンタ。何がそんなにおかしいんだよ」
大村は、ぶっきらぼうな口調で笑い女に声をかけた。
けれど、笑い女は答えない。「いひゃっいひゃっいひゃっ」と笑うばかりだ。
「おい、答えてみろって。世の中、こんなに不景気だっつーのに、何を楽しそうにしてやがんだ」
大村はそんな内容のことを言っていた。
多分、それまでは俺と一緒に陰口を叩くことで発散していたものが、酔いのせいで他人にまで向いたのだと思う。
やっぱり、笑い女は「いひゃっいひゃっいひゃっ」と笑うだけで、何も答えない。
そんなことを暫く繰り返してから、大村は「何だよ、こいつ、つまんね。おい、もう行こうぜ」と言って、不機嫌そうにその場から離れた。
※
俺らは買い物カゴにスナック菓子などを詰め込んでから、酒の並んだ棚に行った。
大村はすぐに缶ビールを手に取っていたけど、俺はビールに飽き始めていたから、チューハイをじっくり選ぶことにした。
その時、大村が「うおっ」という叫び声を上げた。
何かと思って振り返ると、大村と笑い女が至近距離で向き合っている。
例の「いひゃっいひゃっいひゃっ」という声と一緒に、女の口から大村の顔に唾が飛んでいるのが見えた。
それから、大村が両手を突き出して笑い女を押し倒すまでは、一瞬だった。
笑い女はフラフラと倒れて、ペタンと尻餅をついて、それでも「いひゃっいひゃっいひゃっ」と笑い続けていた。
買い物客や店員が遠巻きに二人を眺めていて、俺も気まずくなってきたから、適当にチューハイを選び、大村と一緒にそそくさと会計を済ませた。
笑い女に謝ろうかとも思ったけど、事情がよく判らないし、俺が謝るのも変な気もしてやめておいた。
何があったのか大村に聞くと、
「お前が酒選んでるの眺めてボーッとしてたら、耳元で気持ち悪い笑い声が聞こえた。驚いて振り返ったら、すぐ目の前にあの女の顔があった」
それで、気味が悪かったから咄嗟に突き飛ばしたということらしい。
それから、「よく見たらあいつ……」って何か付け加えかけたんだけど、途中で口篭って、最後まで聞かせてくれなかった。
※
部屋に帰ってから、また二人で飲み始めた。
でも、大村はさっきのことでバツが悪いのか元気が無く、ふとした拍子に会話が途切れて、お互いに黙ってしまうようなことが多くなった。
そんな感じで会話が途切れると、大村はキョロキョロと視線を動かしたりする。
その内、「何かゲームやろうぜ」と大村が言い出した。
こいつがゲームで遊びたがるなんて珍しいなとは思いつつも、『真・三国無双3』で遊んだ。
二人ともすぐに熱中し始め、大村もいつも通りの元気な感じになってきた。
そうしている内にバスが無くなる時間になって、大村は帰って行った。
この時の俺は、スーパーでのことなんか完全に忘れていたと思う。
※
次の日から、大村の行動がおかしくなり始めた。
まず、やたらとウォークマンで音楽を聴くようになった。
別にそれ自体はおかしなことではないけど、出勤途中に顔を合わせてこちらから声をかけても、軽く手を上げるだけでイヤホンを外そうとしない。
近寄ってみると、物凄い大音量で聴いているみたいで、やたらと音漏れしていた。
ちょっと感じ悪いなと思ったけど、その時は別に何も言わないでおいた。
それが、昼休みにまで音楽を聴くようになった。
昼飯に誘おうとしても、大村はそそくさとイヤホンを付けて、一人でどこかに行ってしまう。
挙げ句、仕事中にまでイヤホンを外さなくなった。
さすがにこれはおかしいと思っていたら、大村よりも更に上の先輩が大村を怒鳴りつけた。
それからは、仕事中に音楽を聴くようなことはなくなったけど、代わりに独り言を言うようになった。
しかも、「うるさい」とか「ああああああ」などと大声で言う。周りが注意してもやめようとしない。
みんな正直気味悪がっていた。
※
見るに見かねて、退勤してから大村を呼び出して話をすることにした。
大村は最初、俺と話すのを渋ったけど、「賑やかなところでだったら話す」と言うので、ファミレスに連れ出した。
ファミレスはそこそこの混み具合で、高校生が大声ではしゃいだりしていた。
それから、俺が「最近のお前はおかしい」と切り出すと、大村は「自分でもわかってる」と言った上で、独りでに話し始めた。
なかなか要領を得ない話だったんだけど、大雑把にまとめると下記のような感じ。
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例のスーパーでの一件以降、ふとした拍子に、笑い女の「いひゃっいひゃっいひゃっ」という笑い声が聞こえるようになった。
初めは微かに聞こえるという程度で、空耳かとも思っていたんだけど、背後から段々近付いて来ているような感じで、日を追う毎に笑い声は大きくなっている。
周りで何かの音(音楽や人の声)がしているような時には笑い声は聞こえてこないのだけれど、ふと無音状態になると、「いひゃっいひゃっいひゃっ」が聞こえてくる。
今では、少しくらい辺りが騒がしくても、それ以上のボリュームで笑い声が聞こえてくることもある。
何より辛いのは夜中で、寝ようと思って電気を消すと、部屋中に鳴り響くような勢いで笑い声が襲ってくるので、とてもじゃないけど寝つくことなんてできない。
※
ここまでまとめるとさっぱりしているけど、実際には話している途中でいきなり大声を出したり、「あいつが、あいつが」と泣きそうな声で繰り返したりするから、内容を掴むにはかなり時間がかかった。
しまいには、「あの女に呪われた」とか、「あいつ、幽霊なんじゃないか」とか言い出す始末。
俺が何よりもまず思ったのは、大村は変な妄想に取り憑かれているということ。
笑い女は幽霊などではないし、ただのちょっと変わった女でしかない。
その証拠に、俺はあの日以降も笑い女がスーパーで買い物をしているところを何度も見ている。実在する人間だ。
笑い声が独特で気味が悪いから耳に残ったというのと、大村なりの罪悪感みたいなものが妄想の原因だと思った。
大体、スーパーに出る幽霊というのも、何だか間抜けだと思う。
そう言って聞かせても、大村はまるでこちらの言うことを聞こうとしない。
『呪い』とか『幽霊』という言葉を繰り返すばかり。
俺は段々イライラしてきて、「そんなに言うなら、一緒にスーパーに行こう」と切り出した。
大村の言っていることの馬鹿馬鹿しさにも腹が立っていたし、相手が現に実在しているただの女だと認識すれば、変な妄想も無くなるんじゃないかと思ったから。
当然、大村は猛烈に嫌がったけれど、俺は大村を無理矢理引き摺るようにしてレストランから出て、電車に乗って例のスーパーに向かった。
電車の中でも大村は、ブツブツ呟いてびびっていた。
※
やっとスーパーの前まで着いたところで、大村が「やっぱり嫌だ」と言い出した。「絶対に中には入りたくない」と。
仕方がないから、「店の前の駐輪場から店内を覗こう」と俺が提案した。
それでも大村は「帰る」と言い出していたけど、俺は相手の肩をがっちり押さえて、逃げ出せないようにした。
ちょっとだけ弱者をいたぶるような気持ちもあったと思う。
けれど、ガラス越しに店内を眺め渡しても、笑い女はいなかった。
いつも笑い女と出くわす時間は大抵このくらいだから、きっといるだろうと思ったのが、失敗だったのかもしれない。
マズイなと思った。
ここで笑い女を見ておかないと、大村は余計に『あいつは幽霊だ』と思い込むかもしれないから。
それでももう少し待っていれば、いつものように買い物に現れるかもしれないと俺は粘った。
その内、大村が両耳を塞いでガタガタ震え始めた。
「聞こえるよう、聞こえるよう」と、子供が泣きじゃくっているみたいな調子で、鼻水を垂らして言う。
「やっぱ呪われたんだよう」と。
でも俺は、それが笑い女の呪いなんかで聞こえている訳じゃないとハッキリ気付いていた。
なぜなら、「いひゃっいひゃっいひゃっ」という笑い声は、大村だけじゃなくて俺にも聞こえていたから。
首だけを横に向けて振り返ると、俺に肩を掴まれた大村の真後ろに笑い女が立っていた。
「いひゃっいひゃっいひゃっ」と笑いながら、涎を垂らしている。
俺は大村が絶対に後ろを振り向かないように、肩を押さえる手に力を込めた。
ただでさえ笑い女を怖がっている大村が、こんな至近距離で当の本人と向かい合うのは絶対にまずい。
少しすると、笑い女はスーパーとは逆の方向に笑いながら去って行った。
立ち去り際に、笑い女の顔が俺の方を向いた。
俺はそれまで笑い女を遠巻きに見たことはあっても、あんな至近距離で真正面から見るのは初めてだった。
口はにんまり開かれているのに、ボサボサの髪の中に見えるこちらを向いている目は全然笑っていない。
でも、怖いと思ったのはそんなことではなく、笑い女の口そのものだった。
涎が唇の端で泡になっている笑い女の口には、歯が無かった。
※
それから後、俺は随分自分勝手なことをしたと思う。
何も知らずにまだ震えている大村を、無理矢理バスに乗せて一人で帰らせた。
もう、その時の俺にとって、大村の妄想などはどうでも良かった。
ただただ自分が見たものの気味悪さが恐ろしくて、早く自分の部屋に帰りたいという一心だった。
※
その日以来、大村は会社に出て来なくなった。
最初はみんな、「あいつ、この年末にサボりかよ」と言っていたけど、あまりにも無断欠勤が続いたから、いくら何でもこれはおかしいという話になった。
そして、大村が死んだことが判ったのが、先週の金曜。
今となっては、大村も気付いていたのかは分からないけど、俺にははっきり分かっていることが一つだけある。
笑い女の「いひゃっいひゃっいひゃっ」というのは、笑い声なんかじゃない。
よく聞くと、「居た、居た、居た」と言っている。