俺の地元に『牛の森』と呼ばれる森がある。
森から牛の鳴き声が聞こえるのでそう呼ばれている。
聞こえると言われている、とかそういうレベルじゃない。本当に聞こえる。
俺自身も何度か聞いたことがある。
牛の森の奥には秘密の牧場があるとか、黄金の牛が居るとか、そんな都市伝説めいた話も存在する。
そんなだから好奇心旺盛な子供が、牛の森に入って迷子になるということがよくあった。
学校では迷子が出る度、牛の森には入らないように注意され、地区の町内会でも子供が牛の森に入らないように見廻りをしていた。
そういう努力もあり、牛の森で迷子になる子供は殆ど居なくなった。
※
しかし俺が小学5年生になる頃、牛の森に猿が住み着いたという噂が立ち始めた。
そうなると子供だけじゃなく、そういうことが好きな年寄りも牛の森で迷子になるということがあった。
俺も猿を見たくて友達と牛の森の周りをよく彷徨いていた。
その年の夏休みに、友達とまた牛の森の周りを彷徨いていると、ついに猿を見つけた。
猿は俺達に気が付くと、右手で木にぶら下がりながら、左手でクイックイッとおいでおいでをした。
俺と友達は、
「何だあの猿!すげぇな~(笑)」
と興奮し、自転車を停めて牛の森の中へ入って行った。
猿は凄いスピードで木から木に飛び移り、俺達が追い付くのを確認すると、また木から木に飛び移って行った。
俺達は夢中で猿を追い掛けた。
※
どれくらい走ったかは覚えていないが、かなり森の奥に来たところで、小さな牧場を見つけた。
牧場と言っても、本当に小さい。小さめの公園くらいの広さだ。
不思議な場所だった。
周りは木が茂っていて、空は葉で覆われているのに、そこだけ空にポッカリと穴が開いたように陽の光が射していた。
周りを柵で囲まれ、中には四頭の牛が居り、小さな小屋があった。
俺は言葉が出なかった。ただただ感動していた。
本当に牛が居たことに。どこか神秘的なこの場所に。
※
暫くして、急に猿がキーキー鳴き始めた。
すると、小さな小屋のドアが開き、中から老婆が出て来た。
こう言っちゃ悪いが、猿のような老婆だった。
もしかして、あの猿のお婆さんだったりして(笑)。
そんな失礼なことを考えていると、老婆はニコニコ笑いながら、あの猿と同じように左手でクイックイッとおいでおいでをする。
俺はこの場所に興味津々だったから行こうとしたのだが、友達が急にその場から逃げ出した。
どうしたんだろうと思ったが、一歩近付いてすぐに了解した。
俺の位置からは牛と重なって老婆の右手が見えなかったが、老婆は右手に牛の首を持っていた。
一瞬時が止まったが、すぐに俺も友達の後を追うように逃げ出した。
※
足場は悪く、周りは木が茂っているので上手く走れない。
それでも、とにかく全力で走った。
後ろから誰かが追い掛けて来る気配がする。
後ろを振り向きたい衝動に駆られるが、後ろを振り向いたらいけないような気がしてならない。
あの老婆がニコニコ笑いながら、包丁を持って追い掛けて来る姿が容易に想像出来る。
前を走る友達が不意に後ろを振り向いた。
俺もそれにつられて、つい後ろを振り向いてしまった。
そこに老婆は居なかった。
代わりにあの猿が追い掛けて来ていた。
猿はあっという間に俺達に追い付くと、俺達の右側の木に飛び移り、キーキー鳴いて俺達を威嚇してきた。
手は出して来ない。ただ鳴いて威嚇してくる。
※
猿に気を取られながらも必死に走っていると、何かが見えてきた。
さっきの小さな牧場だ。
どうしてだろうと困惑しながらも、今度は俺が先頭になって逆方向へ走り出した。
また猿が右側の木に飛び移り、キーキー鳴いて威嚇してきた。
暫くすると前の方に陽の光が射す場所が見えた。あの牧場だ。
俺は足を止め、泣きそうな顔で後ろを振り向いた。
友達も泣きそうな顔をしていた。
俺達は数秒、顔を見合わせていたが、
「逃げなきゃ…」
という友達の声で、また逆方向へ走り出した。
相変わらず猿はキーキー鳴いて俺達を威嚇する。
※
不意に右の方から微かに声が聞こえた。
俺達は足を止め、進行方向を右へ変えた。
「お~~~~い、森へ入っちゃダメだぞ~~~~、すぐに出て来なさ~~~~い。」
今度ははっきり聞こえた。
俺達は声にならない声を上げ、その声の方へ走った。
牛の森の入口付近に顔見知りのおじさんを見つけると、俺達は泣きながらそのおじさんにしがみついた。
おじさんは自転車が牛の森の前で止まっているのを見つけたので、声を上げていたという。
おじさんと一緒に牛の森を出ると、あの猿のキーキー鳴く声が聞こえた。
牛の森の方を見ると、猿はまた右手で木にぶら下がりながら、左手でクイックイッとおいでおいでをしてくる。
俺達が怯えるのを見て、おじさんが
「オラァァァ!!」
と猿に向かって叫ぶと、猿はびっくりして牛の森の中へ消えて行った。
※
俺達は牛の森で見たことをおじさんにも親にも話したが、信じてくれたのかどうか曖昧な感じでよく分からない。
学校の友達に話すとその話はすぐに広がり、老婆にボディブローを入れたとか、老婆に焼肉をご馳走になったとか、訳の解らないことを言う奴も出る始末。
それ以来、牛の森には入るどころが殆ど近付かなくなったので、あの猿と牧場と老婆の真相は判らない。
森の奥で牧場をを営んでいる変わり者のお婆さんだったのか、それとも…。