これは夏休みも間近に迫った大学3年生の頃の話。
大学の友人の樹と覚、そして修(俺)の3人で、海に旅行しようと計画を立てたんだ。
計画段階で、樹が「どうせなら海でバイトしないか」と言い出し、俺も夏休みの予定は特になかったから二つ返事でOKした。
まずは肝心の働き場所を見つけるべく、手分けして色々探して回ることにした。
主にネットで探していたのだが、結構募集しているもので、「友達同士歓迎」という文言も多かった。俺たちはそこから、ナンパの名所と言われる海の近くの旅館を選んだ。
俺は早速電話でバイトの申し込みをした。電話口の女性の話では人手不足らしく、それはもうトントン拍子に話は進み、あっけなくその旅館で働くことが決まってしまった。
※
こうして旅館へと旅立つ日がやってきた。初めてのリゾートバイトな訳で、緊張と期待で結構ワクワクしていた。
電車を乗り継いで3時間。その旅館は2階建ての広めの一軒家。一言で言うなら、田舎の婆ちゃん家。旅館とは書いてあるけど、民宿という呼び名がぴったりかもしれない。
入り口で来訪を告げると、同じ歳くらいの女の子が笑顔で出迎えてくれた。ここでグッとテンションが上がる俺達。
旅館の中は、客室が4部屋、食事する広間が1部屋、従業員住み込み用の部屋が2部屋で、計7つの部屋があると説明され、俺たちは最初に広間へ通された。
暫く待っていると、さっきの若い女の子が麦茶を持って来てくれた。名前は美咲ちゃんと言い、この近くで生まれ育った女の子だ。
そして美咲ちゃんと一緒に入って来たのが女将の真由子さん。恰幅が良くて、笑い声の大きな凄く良い人。それに美人。もう少し若かったら俺、惚れてた。
あと旦那さんもいて、俺達3人を含めた6人でこの民宿を切り盛りして行くことになった。
※
ある程度、自己紹介が済んだ後、女将さんから案内があった。
「客室はそこの右の廊下を突き当たった左右にあるからね。そんであんたたちの寝泊りする部屋は、左の廊下の突き当たり。あとは荷物置いてから案内するから、ひとまずゆっくりしておいで」
ふと樹が疑問に思ったことを聞いた。
「2階じゃないんですか? 客室って」
すると女将さんは笑顔で答えた。
「2階はもう、使ってないの」
部屋に着いて荷物を下ろし、部屋から見える景色と近くの海から流れてくる潮の匂いを嗅ぐと、本当に夏休みが到来したことを実感した。
これからバイトで大変かもしれないけど、こんな場所でひと夏過ごせるのなら全然良いと思った。ひと夏の恋なんていうのも期待していたしね。
※
こうして俺たちのバイト生活が始まった。楽な仕事ではなかったけど、みんな良い人だから全然苦にならなかった。やはり職場は人間関係ですな。あっという間に1週間が過ぎた。
「なあ、俺たち良いバイト先見つけたよな」
「ああ、金もいいし」
二人が話す中、俺も、
「そーだな。でももうすぐシーズンだろ? 忙しくなるな」
樹「そういえばシーズンになったら2階は開放すんのか?」
覚「しねーだろ。2階って女将さんたち住んでるんじゃないのか?」
俺と樹は「え、そうなの?」と声を揃える。
覚「いやわかんねーけど。でも最近女将さん、よく2階に飯持ってってないか?」
そんな姿は見たことがなかった。覚は夕時、玄関前の掃き掃除を担当しているため、2階に上がる女将さんの姿をよく見かけるのだと言う。女将さんはお盆に飯を乗せて、2階へ続く階段に消えて行くらしい。
ここで説明しておくと、2階へ続く階段は一度玄関を出た外にある。1階の室内から2階へ行く階段は、俺達の見たところでは確認できなかった。
その話を聞いた俺達は「ふうん」という感じで、別に何の違和感も感じなかった。
※
それから何日か過ぎたある日、いつも通り廊下の掃除をしていた俺も遭遇することになった。見ちゃったんだ。客室からこっそり出て来る女将さんを。
女将さんは基本、部屋の掃除などはしないんだ。そういうことをするのは全部、美咲ちゃん。だから余計に気になったのかもしれないけど。
見間違いかと思ったけど、やはり女将さんだった。その日一日、悶々したものを抱えていた俺は、結局黙っていられず二人にそのことを話した。
すると、樹が言った。
「それ、俺も見たことあるわ」
「おい、マジか。なんで言わなかったんだよ」
俺が焦る。
「だってなんか用あるんだと思ってたし、それに疑ってギクシャクすんの嫌じゃん」
「確かに」
俺達はその時、残り1ヶ月近くバイト期間があった訳で…。他所様のことを変に詮索しなければ楽しく過ごせるんじゃないかと思った。
だけど俺ら男だし。3人組みだし。少し冒険心が働いて「なにか不審なものを見たら報告する」ということで、その晩は大人しく寝た。
※
そしたら次の日の晩、覚がひとつ同じ部屋の中にいる俺達をわざとらしく招集。いちいち芝居がかったやつ。
覚「おれさ、女将さんがよく2階に上がるっていったじゃん? あれ、最後まで見届けたんだよ。いつも女将さんが階段に入っていくところまでしか見てなかったんだけど、昨日はそのあと出てくるまで待ってたんだよ。そしたらさ、5分くらいで下りてきたんだ」
樹「そんで?」
覚「女将さんていつも俺らと飯食ってるよな? それなのに盆に飯のっけて2階に上がるってことは、誰かが上に住んでるってことだろ?」
俺「まあ、そうなるよな…」
覚「でも俺らは、そんな人見たこともないし、話すら聞いてない」
樹「確かに怪しいけど、病人かなんかっていう線もあるよな」
覚「そそ。俺もそれは思った。でも5分で飯を完食するって、けっこう元気だよな?」
樹「そこで決めるのはどうかと思うけどな」
覚「でも怪しくないか? お前ら怪しいことは報告しろっていったじゃん? だから俺は報告した」
語尾が少し得意気になっていたので俺と樹はイラッとしたが、そこは置いておいて、確かに少し不気味だなと思った。
「2階にはなにがあるんだろう?」
※
次の日、いつもの仕事を早めに済ませ、俺と樹は覚のいる玄関先へ集合した。そして女将さんが出て来るのを待った。
暫くすると女将さんは盆に飯を乗せて出て来た。玄関を出て壁伝いに進み、そのまま角を曲がり、2階に上がる階段の扉を開くと、奥の方へ消えて行った。
取り敢えずそこに消えた女将さんは、覚の言った通り5分ほど経つと戻って来た。お盆の上の飯は空だった。そして俺たちに気付かないまま、1階に戻って行った。
覚「な? 早いだろ?」
俺「ああ、確かに早いな」
樹「なにがあるんだ? 上には」
覚「知らない。見に行く?」
樹「ぶっちゃけ俺、今、びびってるけど?」
覚「俺もですけど?」
俺「とりあえず行ってみるべ」
そう言って3人で2階に続く階段の扉の前に行ったんだ。
「鍵とか閉まってないの?」
という樹の心配をよそに俺がドアノブを回すと、すんなり開いた。
「カチャ」
扉が数センチ開き、左にいた覚の位置からなら辛うじて中が見えるようになった時、
「うっ」
覚が顔を歪めて手で鼻をつまんだ。
樹「どした?」
覚「なんか臭くない?」
俺と樹には何も分からなかったのだが、覚は激しく臭いに反応していた。
覚「いやマジで。臭わないの? 扉もっと開ければわかるよ」
俺は意を決して扉を一気に開けた。ひんやりとした空気が中から溢れ、埃が舞った。
俺「この埃の臭い?」
覚「あれ? 臭わなくなった。でも本当に臭ったんだよ。なんていうか…生ゴミの臭いっぽくてさ」
樹「気のせいじゃないの」
そんな二人を横目に、俺はあることに気が付いた。廊下が凄く狭い。人が一人通れるくらいだった。
そして電気らしきものが見当たらない。外の光で辛うじて階段の突き当たりが見える。突き当たりには、もう一つ扉があった。
俺「これ、上るとなるとひとりだな」
樹「いやいやいや、上らないでしょ」
覚「上らないの?」
樹「上りたいならお前行けよ。俺は行かない」
覚「おれも、無理だな」
樹が覚を肩パンチ。
俺「結局行かねーのかよ。んじゃー、俺いってみる」
二人「本気?」
俺「俺こういうの、気になったら寝れないタイプ。寝れなくて真夜中一人で来ちゃうタイプ。それ完全に死亡フラグだろ? だから、今、行っとく」
訳の解らない理由だったが、俺の好奇心を考慮すれば、今、樹と覚がいるこのタイミングで確認する方が良いと思ったんだ。でも、その好奇心に引けを取らずして恐怖心はあった訳で…。
取り敢えず俺一人行くことになったのだが、何か非常事態が起きた場合は絶対に(俺を置いて)逃げたりせず、真っ先に教えてくれという話になった。
ただし、何事もない時は、急に大声を出したりするなと。もしそうした時は、命の保障はできないとも伝えた(俺のね)。
※
一段一段と階段を登る俺。
階段の中には外からの光が差し込んでいるが、とても薄暗い。慎重に一段ずつ階段を登り始めたが、途中から、
「パキッ…パキ」
と音がするようになった。
何事かと思い、怖くなって後ろを振り返り、二人を確認する。二人は音に気付いていないのか、じっとこちらを見て親指を立てる。「異常なし」の意味を込めて。
俺は微かに頷き、階上に向き直る。古い家によくある、床の鳴る現象だと思い込むようにした。
下の入り口からの光があまり届かないところまで登ると、好奇心と恐怖心の均衡が怪しくなってきた。そのまま引き返したい気分になった。
暗闇で目を凝らすと、突き当たりの扉の前に何かが立っている…かもしれないとか、そういう「かもしれない思考」が本領を発揮し始めた。
「パキパキパキッ…」
この音も段々激しくなり、どうも自分が何かを踏んでいる感触があった。虫かと思った。背筋がゾクゾクした。でも何かが動いている様子はなく、暗くて確認もできなかった。
何度振り返ったか判らないが、途中から下の二人の姿が逆光のせいか薄暗い影に見えるようになった。ただ親指はしっかり立てていてくれたみたいだけど。
そしてとうとう突き当たりに差し掛かった時、強烈な異臭が俺の鼻を突いた。俺は覚と全く同じ反応をした。
「うっ」
異様に臭い。生ゴミと下水が入り混じったような臭いだった。
『なんだ? なんだなんだなんだ?』
そう思って辺りを見回す。
その時、俺の目に飛び込んできたのは、突き当たりの扉の前に大量に積み重ねられた飯だった。まさにそれが異臭の元となっていて、何故気付かなかったのかというほど蝿が群がっていた。そして俺は、もう一つあることを発見してしまう。
突き当たりの扉には、ベニヤ板が無数の釘で打ち付けられていて、その上から大量のお札が貼られていたのだ。更に、打ち付けた釘に細長いロープが巻きつけられていて、蜘蛛の巣のようになっていた。
正直、お札を見たのは初めてだった。だからあれがお札だったと言い切れる自信はない。でも大量のステッカーという訳でもないと思う。明らかに、何か閉じ込めていますという雰囲気が全開。
俺はそこで初めて、自分のしていることが間違いだと思った。
『ここにいちゃいけない』
そう思って踵を返して行こうとした時、突然背後から、
「ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ」
という音が聞こえた。
扉の向こう側で、何か引っ掻いているような音だった。
そしてその後に「ヒュー…ヒュッヒュー」という不規則な呼吸音が聞こえてきた。
俺は身動き一つできなかった。
あの時の俺は、ホラー映画の脇役の演技を遥かに凌駕していたのではないかと思う。そのまま後ろを見ずに行けば良いのだけど、あんなの実際できないぞ。そのまま行く勇気もなければ、振り返る勇気もない。そこに立ち竦むことしかできなかった。
眼球だけが左右に動き、冷や汗で背中はビッショリだった。
その間も、
「ガリガリガリガリガリガリ」
「ヒュー…ヒュッヒュー」
という神経を逆撫でする音は続き、俺は緊張で動かない足をどうにか進めようと必死になった。
すると背後から聞こえていた音が一瞬止まった。本当に一瞬だった。そして「バンッ!」という叩き付ける音。そして「ガリガリガリガリガリガリ」という音。
信じられなかったのだけど、それは俺の頭の真上、天井裏から聞こえてきたんだ。さっきまで扉の向こう側にいたはずなのに、一瞬で頭上に移動したんだ。
俺はもう限界だった。
そんな中、本当にこれも一瞬なんだけど、視界の片隅に動くものが見えた。それは階下の樹と覚だった。何か叫びながら手招きしている。
「おい!早く降りてこい!」
この瞬間に体が自由になり、我に返った俺は一目散に階段を駆け下りた。
後で二人に聞いたのだが、俺はこの時、目を見開いたまま、一段抜かしの転がるような勢いで下りて来たらしい。
※
駆け下りた俺は、とにかくその場所から離れたくて、そのまま樹と覚の横を通り過ぎ部屋まで走って行ったらしい。この辺はあまり記憶がない。
部屋に戻って暫くすると、樹と覚が後を追って部屋に入って来た。
樹「おい、大丈夫か」
覚「なにがあったんだ? あそこになにかあったのか?」
答えられなかった。というか、耳にあの音が残っていて、思い出すのも怖かった。
すると樹が慎重な面持ちで、こう聞いてきた。
「お前、上で何食ってたんだ?」
質問の意味が解らず聞き返した。
すると樹はとんでもないことを言い出した。
「お前さ、上に着いてすぐしゃがみこんだろ? 俺と覚で何してんだろって目を凝らしてたんだけど、なにかを必死に食ってたぞ。というか、口に詰め込んでた」
「うん…しかもさ、それ…」
覚は俺の胸元を見つめる。
何かと思って自分の胸元を見ると、大量の腐った残飯がくっついていた。そこから食物の腐った臭いが漂い、俺は一目散にトイレに駆け込み、胃袋の中身を全部吐き出した。
何が起きているのか解らなかった。俺は上に行ってからの記憶はあるし、あの恐怖の体験も鮮明に覚えている。ただの一度もしゃがみ込んでいないし、増してやあの腐った残飯を口に入れる筈がない。
それなのに、確かに俺の服にはそれがこびり付いていて、よく見れば手にも掴んだ形跡があった。
俺はゲエゲエ吐きながら混乱の頂点にいた。
※
俺を心配してトイレまで見に来た樹と覚は、
「何があったのか話してくれないか? ちょっとお前尋常じゃない」
と言った。
俺は恐怖に負けそうになりながらも、一人で抱え込むよりはいくらかましだと思い、さっき自分が階段の突き当たりで体験したことを一つ一つ話した。
樹と覚は、何度も頷きながら真剣に話を聞いていた。
二人が見た俺の姿と、俺自身が体験した話が完全に食い違っていても、最後までちゃんと聞いてくれたんだ。それだけで安心感に包まれ泣きそうになった。
話して少しホッとしていると、足がチクチクすることに気付いた。『なんだ?』と思い見てみると、細かい切り傷が足の裏や膝に大量にあった。
不思議に思って目を凝らすと、何やら細かいプラスチックの破片ようなものが所々に付着していることに気が付いた。赤いものと、少し黒みのかかった白いものがあった。
俺がマジマジとそれを見ていると、
「何それ?」
と覚はその破片を手に取って眺めた。
そして、
「ひっ」
と言ってそれを床に投げ出した。
その動作につられて樹と俺も体がビクッとなる。
樹「なんなんだよ?」
覚「それ、よく見てみろよ」
樹「なんだよ? 言えよ、恐いから!」
覚「つ、爪じゃないか?」
その瞬間、3人とも完全に固まった。俺はその時、物凄い恐怖心を抱きながらも、何故か冷静にさっきまでの音を思い返していた。
『ああ、あれ爪で引っ掻いていた音なんだ…』
どうしてそう思ったか解らない。だけど、思い返してみれば繋がらないこともないんだ。
階段を登る時に鳴っていた「パキパキ」という音も、何かを踏みつけていた感触も、床に大量に散らばった爪のせいだったのではないか…と。
そしてその爪は、壁の向こうから必死に引っ掻いている何かのものなんじゃないか…と。
きっと膝をついて残飯を食った時、恐怖のせいで階段を無茶に駆け下りた時、床に散らばる爪の破片のせいで怪我をしたのだろう。
でも、そんなことはもうどうでも良い。確かなことは、ここにはもう居られないということだった。
俺は樹と覚に言った。
俺「このまま働けるはずがない」
樹「わかってる」
覚「俺もそう思ってた」
俺「明日、女将さんに言おう」
樹「言っていくのか?」
俺「仕方ないよ。世話になったのは事実だし、謝らなきゃいけないことだ」
覚「でも、今回のことで女将さん怪しさナンバーワンだよ? もしあそこに行ったって言ったらどんな顔するのか、俺見たくない」
俺「バカ。言うはずないだろ。普通に辞めるんだよ」
樹「うん、そっちのほうがいいな」
そんなこんなで、俺たちはその晩の内に荷物をまとめた。
そしてあまりの恐怖のため、布団を2枚くっつけてそこに3人で無理やり寝た。メザシのように寄り添って寝た。
誰一人、寝息を立てるやつはいなかったけど。