こんな所でヒサユキの名前に会うとは、実際のところ驚いている。
彼女の事について真相を伝えるのは私としても心苦しいが、だがこの様に詮索を続けさせるのは寧ろ彼女にとっても辛いことだろう。
そのため、ここで私は真相を明かそうと考えるが、その前にこれを読む者には一つの心構えを御願いしたい。
すなわち、彼女については、その一切を忘れてしまうこと。
これは、貴方と彼女のためである。
では、始めよう。
※
話は昭和十九年に遡る。
ここは若向きの掲示板であるだろうから、昭和年号で表記しても余り感興は沸かないかも知れない。
ならば、1944年としたらどうだろうか。
そう、日本が敗北する一年前のことである。
戦火は日増しに激しくなり、私の在籍していた帝国大学大学院でも、文系ばかりか理系までも学徒出陣を余儀なくされていた。
そんな頃の話である。
私は民俗学を専攻しており、その研究主題は
「鬼」
であった。
有名な桃太郎の昔話に代表されるように、鬼にまつわる話は枚挙に暇が無い。
巷間に流布されている通説によれば、彼ら鬼は日本に漂着した露西亜人である。
成る程、赤ら顔や巨躯などは正に鬼の風情そのままであることだろう。
而るに、私が採った手法は、日本の鬼と中国の鬼とを比較検討することであった。
御存知の方も居るかも知れないが、中国の鬼は、日本で言うところの幽霊に相当する。
すなわち、前者が物質的であるのに対して、後者は霊気的存在であるのだ。
恐らく鬼が中国から日本へと流入する際に、何等かの変容を遂げたものと私は考えていた。
※
さて、ここで彼女について話さねばならない。
先述したように、彼女についての一切を忘れて頂かなくてはならないので、その名前については伏せておくことにする。
ただ、彼女は日本を代表する高名な生物学者(恐らく、誰もが一度は教科書で名前を見たことだろう)の一人娘であった。
そして、彼女自身も帝国大学大学院で生物学を専攻しており、その研究主題は
「身体改造」
であった。
物資も兵員も不足する中で敗勢を覆すために、彼女は軍部の支援の元に、兵員の身体そのものを改造する研究を進めていたのである。
しかし、その研究は失敗の連続であったらしい。
そんな時に、私と彼女は出会うことになる。
鬼に対する私の解釈に彼女はひどく興味を持ってくれて、私達は
「鬼」
を介して何度か議論を交わすようになった。
そして、何時しか私達は惹かれ合い、逢瀬と恋文を交わす仲となっていった。
そんな頃、彼女について良からぬ噂を耳にした。
彼女の研究を支援しているのは、軍部ではなく、実は
「組織」
であるらしいのだ。
だが、「組織」については、私もよく知らない。
聞くところによれば、それを構成するのは軍部・財閥・皇族・神道関係者・帝国大学の学者であり、言わば天皇が傀儡としての表の顔であるならば、「組織」は実験を握る裏の顔であるのだ。
このように書くと如何にも胡散臭いのであるが、一説によれば、松代大本営の造営も彼らによって立案実行されたものらしい。
或る日、私は冗談混じりに彼女にそれを問い質してみた。
彼女は肯定も否定もせず、ただ笑っていた。
しかし、その次の日に、私が所属する研究室の扉を敲く者が居た。
軍服に身を包んだその将校は、自分は冷泉中尉であると名乗った。
彼の話はこうである。
優秀な生物学者である彼女を中心に、この度、新規研究計画を立ち上げたい。
ただ、その研究内容は甚だ特殊であり、かつ国家の存亡を左右するので、諜報対策のために人里から離れた特別な研究所を建造した。
そこで、彼女と懇意にしている私も、共にその研究所で働いてはもらえないものだろうか、と。
昨日の出来事とを合わせ考えるならば、彼の話はひどく疑わしいものであるように思えた。
冷泉という名前は如何にも偽名のようであったし、殊更に自分が軍部所属であると主張しているようにも取れたからである。
私は
「時間を頂きたい」
と返すと、その日は彼に御引取り願うことにした。
※
その夜、この話を彼女に伝えた。
すると、暫く逡巡する様を見せていたものの、次の様に喋り出したのである。
彼女にとって、鬼に対する解釈は私のそれと全く異なるものであった。
私が霊気的存在から物質的存在への変容を民俗学的に捉えていたのに対して、彼女はそれを生物学的に捉えていたのである。
簡明に述べるならば、霊気的存在が物質的存在に宿ることによって、後者は前者へと生物学的に変容するのである。
具体的に述べるならば、人間が幽霊に憑かれることによって、彼は鬼となるのである。
そして、その鬼となった人間を、大日本帝国軍は兵員として用いようとしているのである、と。
続けて言う。
私との議論の中から、彼女は先述の生物学的変容を理論化していった。
また、今回の新規研究計画というものも、これに関するものである、と。
「覆水、盆に返らず」
とは正にこの事であるが、だが私はここで彼女を引き止めておくべきだったのだ。
確かに、軍部が関係する研究に携わっていれば、学徒出陣から免れる事が出来るという自己保身の意図はあった。
だが、弁解が許されるならば、俄かには信じ難い彼女の理論が成功を収めるかという学究欲、そして何より、恋慕する彼女から離れたくはないという感情が存在したのである。
何れにせよ、私は彼女との同行を了承し、
「ヒサユキ」
は誕生してしまったのである。
※
その研究所は、成る程、山深い場所に位置していた。
だが、そこに至る途中の車内では私の両隣を体格の良い兵隊が占め、その研究所までの途上は判然としない。
漸く窮屈な車内から解放され、私達は研究所の前に立った。
そこで、私は少しく違和感を覚えたのである。
何故なら、新しく建造したにしては、いやに研究所は古びていたからだ。
元は白かっただろう壁は黒く薄汚れ、所々のペンキが剥がれ落ちていた。
そして、私と彼女はこの研究所で働くことになった。
そうは言うものの、私は民俗学を、彼女は生物学の研究をそれぞれ進めるだけであり、帝国大学大学院の頃と同様な生活を送っていたのである。
だが、一つ気になる点があった。
それは、彼女が何処かに行ってしまう時間帯があったことだ。
研究所職員の誰に尋ねても芳しい返答は得られず、当の彼女に聞いても言葉を濁すばかりで要を得ない。
その一方、着実にその時間帯は増えていった。
いよいよ変しいと思っていた矢先、或る日、私は研究室の窓の向こうに彼女の姿を見つけた。
どうやら、研究所から何処かに行くようである。
だが、先述したようにここは山深い場所であり、近くの村落まで歩いて半日以上もかかるのである。
そこで、懸案の謎も解決すると思って彼女の後をつけたのは当然であった。
すると、彼女は深い山に独りで分け入って行く。
ちょうど真昼であったものだから私も玉の汗を落としながら、何とか引き離されないように続く。
不意に視界が開けた。
木々が綺麗に切り払われて作られた広場、そこに建っていたのは、小じんまりと古びた神社であった。
どうしてこんな場所に、と私が訝しんでいると、彼女はそのまま入口から入って行ってしまう。
さてどうしたものか、と私は暫く逡巡していた。
蝉の声がいやに煩かったから、きっとその時は夏だったのだろう。
――と、入口に人影が。
それは、白い羽織と袴を着けた幾人かの神官だった。
まるで何かを迎えるように、彼らは入口の前に整列する。
そして、そこに姿を現したのは他ならぬ彼女だった。
だが、少しく様子が変しい。
ぢっと目を凝らしていた私は、小さく声を漏らしてしまった。
彼女の口からは鮮血が流れ出し、両手や着衣には得体の知れない赤黒いものがこびり付いていたからである。
何事か呟くように唇は動いているものの、目の焦点は最早合っていない。
私が目を離せないでいると、彼らは言葉も無く示し合わせたかのように、彼女を連れて山を降りて行ってしまった。
私はどうすることも出来ない。
蝉の声が煩い。
※
研究所に戻った私を待っていたのは、あの冷泉中尉であった。
彼は研究所前の門で独り立っていた。
恐らく顔面蒼白だったろう私は、一礼して彼の横を通り過ぎようとする。
その時、彼は通り過ぎざまに言ったのだ。
この研究も佳境に来ているので、暫くは彼女と会うのは慎んで欲しい、と。
実際のところ、私はそうせざるを得なかった。
何故なら、これ以降、私は研究室から出るのにも相応の理由が必要となり、これは体の良い軟禁状態だったからだ。
だが、一日の内の数十分ではあったが、私と彼女は会うことが出来た。
あの神社での一件を問い質す事には気が引けたものの、そんな事を忘れさせてくれる様な事が起こったのである。
彼女が私の子を宿したのである。
私達は自分が子供になったみたくはしゃいで、この子の名前を考えた。
そして、二人の名前から一字ずつ取って、男の子だったらこの名前にしようと決めたのだ。
「久幸」
と。
※
この後の事は余り語りたくない。
だが、一言で述べるならば、私と彼女の日々は壊れてしまった。
いや、壊れてしまったのは私と彼女の方なのかも知れない。
とにかく、その夜、私は罵倒と悲鳴で目を覚ました。
私は暗闇でそのままぢっとしている。
何か物が壊れる音が研究所中から聞こえる。
それは高い/低い/鈍い/鋭い/乾いた/湿った在りと在る破壊音だった。
どれだけ経っただろうか、唐突に音が止む。
油に火を入れると、それを明かりに廊下へと出た。
そこには何人もの研究所職員が倒れていた。
慌てて駆け寄ろうとして、気付く。
彼らには全て、何処か部品が足りなかった。
それは手であったり、足であったり、頭であったりした。
腹を裂かれて内臓が零れ出している者は、それを掻き入れようと必死である。
私は何度も吐きながら、何も吐くものが無くなった頃に、漸く研究所の入口に辿り着いた。
そこに滴り落ちている鮮血は、所々が途切れながらも、あの山の深くへと連なっている。
実を言えば、この後の記憶は無い。
恐らく、研究所からあの神社へと足を運んだはずなのだ。
だが、その間の記憶はすっかり欠落し、次に覚えているのは神社の床に転がる冷泉中尉の死体だった。
私は視線を横にずらす。
「くちゃくちゃ、くちゃくちゃ」
そして咀嚼音。
「久幸……久幸……」
彼女は赤子を逆さにして両手で掴むと、湯気の立つ内臓を貪っていた。
私は何も出来なかった。
彼女がすっかりその赤子を食べ終わってしまうまで、私は何も出来なかったのだ。
彼女がこちらを見ている。
きっと私も食われるのだろう。
でも、それでもいいと思った。
そこにあったのは自責の念かも知れないし、或いは違うかも知れない。
「……………………」
私は目を瞑った。
「……………………」
目を開いた時、しかし彼女は何処にも居なかった。
そして私は暫く泣いた。
※
その後、世間が神武景気に始まる高度経済成長に沸く中でも、
「最早、戦後ではない」
と言われるようになっても、私は彼女の足取りを丹念に追い続けていた。
その途上、幾つか彼女の断片を見つけることが出来た。
例えば、彼女は「組織」から「献体丙」と呼ばれていたこと。
何度か家畜を貪り食らう彼女が目撃されたこと。
そして、その際に「久幸」と繰り返していたことから、彼女が「ヒサユキ」と呼ばれるようになったこと。
例えば、鬼に関する生物学的変容は可逆性を有していること。
すなわち、物質的存在である鬼は霊的存在である幽霊に変容することも可能であること。
そして、その両変容ともに人間の情念を必要とすること。
例えば、この掲示板に寄せられたヒサユキ/ヒサルキの情報の数々。
以上で、この年寄りの話は終わりにしたい。
そして、この話の一切を忘れて欲しい。
何故なら、誰かが彼女のことを覚えている以上、彼女は件の生物学的変容から抜け出ることが不可能となってしまうからである。
それどころか、今度は貴方が鬼へと変容してしまうかも知れないのである。
では、私はどうなのだろうか。
勿論、私も彼女についての一切を忘れることにする。
そう、彼女に食われることによって。
本文に於ける乱筆は御容赦願いたい。
また、戦後の生活難の中で食い繋ぐために冒険小説紛いの駄文を書き散らしていたので、部分によっては小説めいているかも知れない。
だが、この
「ヒサユキ」
そのものに関しては全て真実である。