この事件が起きるまで、俺は心霊現象肯定派だった。でも今は肯定も否定もしない。
今から十二年前、俺は仕事の都合で部屋を引っ越すことになった。
その部屋は会社が用意したもので、荷物の運び入れなどの作業は全て業者に任せ、引っ越しが完了して初めてその部屋に入った。
ドアを開けたその瞬間、凄い線香の臭い。そして今まで感じたことの無い寒気。
これはかなりやばいかもと自問自答しながら、奥の部屋に荷物を置いた。
間取りの確認をするように俺は部屋を見渡し、取り敢えず自分の寝る場所と、くつろぐ場所を決めた。
この部屋の間取りは2Kで、玄関を入るとすぐ左手に四畳半の台所があり、奥には六畳間が二つある。
俺は手前の六畳間をくつろぐ場所に、奥の部屋を寝る場所にすると決めた。
※
荷物の整理をする間も無く、俺は追われている図面を書き始めた。
普通ならこんな嫌な感じのする場所で仕事などする気にはなれない。
でも当時の俺は駆け出しで、他のことを考える余裕など一切無し。
とにかくひたすら図面を書いていた。
※
それから3時間が経過し、腹が減ったなと思い時計を見ると23時半。飯食ったら寝なきゃ……。
そう思い台所に向かおうとした瞬間、俺の体は凍り付いた。
ガラス戸の向こうに誰か居る。曇りガラスのため、誰なのかは判らない。
ただ直感的に『人じゃねーよな……』と思い、開けるべきか放って置くべきか悩んだ。
でも腹は減っている。それに今、ここの部屋の主は俺じゃん。そう自分に言い聞かせ開けることにした。
嫌だなと思いながら俺はガラス戸を引いた。
そして次の瞬間思った。
やめときゃ良かった。目の前に居たのは、身長六尺程の男。
季節は八月なのに黒いコートを纏い、眼球の飛び出した目で俺を見ている……。
あまりに目が怖いので、俺は視線を下に逸した。
すると首からは夥しい血。
『やばいかも』
心の中で呟いていると、耳元で声がした。
「ここは俺の部屋なんだけど、あんた誰」
そう言われた瞬間、俺はガラス戸を引いていた。
※
どうすりゃいいんだよ。助けを呼ぼうにもまだ電話は引いていないし、今と違い当時は携帯など普及もしていなかった。
逃げるしかない。でもガラス戸を引けば男が立っているし……。
だからと言ってこの部屋では流石に寝られん。やはり出て行くしかない。
仕事道具と軽い身の回りの品をまとめて出る準備をし、俺は恐る恐るガラス戸を引いた。
そして男とは目を合わせないようにしながら男の横をすり抜け、玄関の扉を開きながら思わず、
「失礼しました」
そう言いながら扉を閉めていた。我ながら情けなかった。
その日は仕方無く駅前のカプセルホテルに泊まることにした。
※
翌日会社へ向かい、アパートを借りた担当者にそれとなく聞いてみた。
担当は駅からも近いし、部屋数の割に値段が安かったからと…、理由はそれだけらしい。
俺は担当者の前で大きく溜め息を吐きながら、
「そうですか」
それしか言えなかった。
変なのが出るんで部屋を変えてくれなどとは言えない。言ったところで、誰も信じないだろうし。
この事件に遭うまで自分は色々な現象を体験していたし、怖いと心底思ったことは無かった。でも今回は、心底恐ろしかった。
一人ではとてもあの部屋に戻ることは出来ない。そう思った俺は中学からの親友二人に連絡を取り、相談に乗ってもらうことにした。
※
仕事が終わってから喫茶店で落ち合うことにして、俺が喫茶店で二人を待っていると先に井上が来た。井上は俺と同じで多少の霊感がある奴だった。
暫くして石川が来た。
石川は井上とは違い心霊現象とは無縁で、筋金入りの否定派。科学で証明出来ない物は起こるはずがないと、いつも俺達のことを否定する奴だった。
俺は二人に昨日起こったことを一部始終話した。反応は俺の予想通り、石川からは「アホかっ」の一言。井上は神妙な顔で「お前がそこまで怖がるのは初めてだな」と言う。
そして井上は、
「解った。今日一緒に行って調べてみるか」
井上の言葉を聞いた石川は、
「俺の方は行けるとしても明日からだな。今日はこの後、彼女んとこ行かなきゃいけないからさ」
俺と井上は了解した。
それから30分ほど話してから石川は出て行き、俺と井上も喫茶店を出てアパートに向かうことにした。
※
そして問題のアパートに到着し、玄関の前に立った途端、井上は一言…。
「こんなの初めてだよ」
既に井上の顔からは汗が吹き出していた。
俺は鍵穴に鍵を差しながら井上に
「開けるよ、いいか」
井上は俺を見て頷いた。
昨日と同じように線香の強烈な臭いが鼻をついてくる。
井上も「凄い臭いだな」と言いながら部屋に上がった。
昨日のこともあり、二人とも土足だった。
俺と井上は台所を抜けてすぐに六畳間に向かった。
六畳間に入ると井上は、
「お前の言う通り、台所普通じゃないね」
と俺の方を見ながら呟いた。
部屋に入るまでの道すがら、俺と井上はどういう対処法で行くか相談していた。
所詮素人に出来る対処法など大したことはなく、前の部屋で使用していたお札をガラス戸に貼り、清めの塩を台所の四隅に盛ることにした。
二人で怖々と台所に塩を盛り、奥の六畳間に戻ると、井上は溜め息混じりに
「効けばいいけどな」
そう呟いた。
俺としても効いてくれれば言うことはない。
昨日得体の知れない奴が出たのが23時過ぎ。また同じ時間に奴は現れるのか。そう思いながら時計を見るとまだ21時10分過ぎ。
まだ何も起こらないだろうと思い、井上と雑談をしながら気を紛らわせようとした。
5分ほど経った頃だろうか。いきなりガラス戸が揺れ始め、次第に激しくなり、物凄い音でガラス戸を叩く音へと変わった。
二人ともガラス戸を見つめながら後ずさりをして、部屋の奥へ奥へと進んでいた。
奥に行くと、叩く音はピタッと止んだ。
二人で顔を見合わせた次の瞬間、今度は二人の背後の窓がいきなり開いた。
鍵も開けていないのに何故…。そう思いながら今度は二人ともガラス戸の方にたじろいだ。
思い切り開いた窓を見つめながら井上は
「なあ、これ洒落にならねーよ。部屋から出た方がいいよ」
そう言った瞬間、ガラス戸の上の窓が割れた。
そうなると当然、二人の視線は割れたばかりの窓の方に移る……。
割れた窓の向こうには、昨日俺が見た奴の目が二人を睨んでいた。
眼球の飛び出したあの目が。
俺は井上に、
「逃げるしかねーぞ」
そう言いながら逃げる場所を探した。
しかしどうしても出口は玄関のみ。後はいきなり開いた窓しかない……。行くしかない。
ここは二階。飛び出しても大怪我はしないだろう。
部屋の電気を消し、先に井上を出してから、自分も下を確認せずに飛んだ。
無事部屋から出た二人は、大通りに出てタクシーを掴まえ、一目散に井上の住むアパートへ向かった。
部屋へ向かう途中のタクシーの中で、二人は会話をすることも出来ないほど怯えていた。
※
井上の部屋に到着し、落ち着こうと思い煙草に火を点けた。
そして井上も落ち着いたのだろう。引き攣った笑いで
「あの部屋どうすんの」
そう聞いてきた。
「無理。あそこでは住めない」
俺はそう答えるしかなかった。
その晩は二人ともこれ以上の会話はしなかった。
一晩井上の部屋で過ごし、その日が土曜日ということもあり、週末は井上の部屋に居ることにした。二人とも会話も無いまま昼飯を食っていると、井上の部屋の電話が鳴った。
石川からだった。今から井上の部屋に来たいと言う。きっと昨日の話が聞きたいのだろう。井上はそう言いながら受話器を置いた。
※
それから2時間ほど経過した頃、石川はやって来た。
石川はやけに嬉しそうに、
「二人ともここに居るってことは、逃げたの?」
そう言うといきなり真顔になり、
「情けなさ過ぎないか」
それを聞いた井上は怒り出し、
「見えねー奴には解んねーだよ」
今にも掴みかかりそうな井上をなだめ、俺は石川に
「俺達二人が簡単に逃げ出したことがあったか。他の奴がビビって逃げ出しても、俺達は逃げたことなんてねーんだぞ。お前もそれはよく知ってんだろ。その俺達二人がここに居る。それだけで理解できねーか」
俺もかなり切れそうになるのを抑えながら捲し立てた。
そして落ち着いたところで昨日のことを石川に説明し、俺は二度とあの部屋には戻らないことを石川に告げた。
すると石川は、
「仮に戻らないとしたら、新しい部屋を借りなきゃいけないんだろ。そしたら自腹で借りることになるんじゃねーの。馬鹿げてる。何で起こるはずのない現象にビビって、そんな無駄金を使う必要があんだよ」
今度は逆に石川の方が切れそうだった。
その時、俺は思った。見えない人間、理解しない奴にしてみれば、どれだけ馬鹿げたことか。居るはずのない物に対して怯え、挙げ句の果てには逃げ出そうとしている。石川には理解出来る訳ないか。
話が進んで行くと、石川は俺に向かいながら
「俺が確認する。それだけのことが起こるなら、俺にも見えるはずだろ。そしたら俺も納得するよ」
俺は石川のその言葉を聞いた時、
『あれだけはっきりした現象が起きたんだ、いくら石川に霊感が無くても、少しは何かを感じ取れるかもしれない。もし石川に見ることが出来たら、逃げ出す気持ちも解るだろう』
と思った。
しかし、それが全ての間違いだった。
それから三人は、21時頃に俺のアパートに着くように調整しながら向かうことにした。井上はかなり嫌がっていたのだが……。
※
20時40分。
思ったよりも早く着いた。心なしか石川は楽しそうだった。階段を上り部屋の前に着いた時、石川の表情が変わった。
それはまるで喧嘩の前の表情だった。
俺は石川に
「喧嘩でもしそうな顔だな」
と言うと、井上は
「やめねーか。やっぱ今までと違い過ぎんだよ、ここは」
石川はそれを聞いて、
「いつもの井上はどうしたよ。喧嘩の時はそうじゃねーだろ。いつものお前らしくもねー」
そう吐き捨てるように言いながら、
「ならお前はここに居ればいい。開けるよ」
石川は俺に相槌を打ち、ドアを開けた。
※
何事も無いかのように石川は台所を過ぎ、六畳間へ進んで行き、俺もその後を追って部屋に入った。
「何ともねーじゃん」
石川は俺を見ながら笑い出した。
しかし石川の笑いもそこまでだった。笑っている石川を見て俺はたじろいだ。
石川の背にしているガラス戸の向こうで、あの得体の知れない奴がまたここを見ている。既に言葉にならない俺は石川の背後を指差し、それに気付いた石川もガラス戸に視線を移した。
きっと見えたであろう石川は、俺の方に後ずさりしている。
後ずさりして来た石川の肩が俺の肩とぶつかる。
俺は必死に声を出し、
「窓から逃げるぞ」
そして二人で窓に向かった。窓は昨日のままで開いている。二人が動いた瞬間、今度は逆に窓が閉まってしまった。
行き場を失った二人は、そこに立ち竦むことしか出来ない。
※
そのまま立ちすくして居ると、石川の様子がおかしくなってきている。
いきなり怯えながらその場に座り込んでしまい、
「やめてっ、やめてくれ」
そう叫びながら何かを振り払おうとしている。
石川は何を見ているんだ。俺はそう思い、石川の振り払おうとしている場所を目を凝らして見ようとしたが、俺には見えない。
俺に見えるのはガラス戸の向こうに居る奴だけ。石川は全く別のものを見ている。
俺は必死に石川をなだめた。でもどんどん酷くなっている。
石川の普通ではない声を聞いて、井上が玄関を開けてくれた。
俺は咄嗟に井上に向かって
「そこの盛り塩をここに投げろ」
そう叫んだ。
井上は塩を取り、一直線に投げてくれた。その瞬間、得体の知れない奴は消えた。
そして俺は石川を担ぎ上げて玄関に向かい、何とか部屋を後にした。
※
石川を担いだまま階段を降り、一旦その場に降ろして石川の様子を見た。
だが石川の怯えは止むことは無かった。俺は石川の様子を見て、病院に連れて行くことにした。
しかし井上は、
「医者には何て言うんだよ」
泣きそうになりながら言った。
でも俺達には何も出来ない。だから連れて行こう。井上をなだめながらそう言うのがやっとだった。
※
大通りに出てタクシーを掴まえ、
「病院まで急いでくれ」
そう運転手に告げると、運転手は石川を見ながら
「他のタクシーにしてよ」
それを聞いた井上が怒り出し、
「てめー乗車拒否すんのかこら」
そう言って運転手の座っている座席を、後ろから思い切り蹴りつけた。
運転手も二人の殺気立った顔を見て観念したのか、
「解りました」
そう言いながら病院に向かってくれた。
※
病院に着いた俺は、石川を抱えながら急患受付に向かい、医者に事情を説明した。
すると医者は疑わしそうに俺を見ながら、
「取り敢えず安定剤で落ち着かせましょう。一晩経てば落ち着くでしょうから」
そう言いながら処置室に向かった。
そう聞いた俺と井上は安心し、病院で一晩を過ごすことにした。
※
俺と井上は病院の待合室で仮眠を取らせてもらい、朝が来るのを待っていた。
医者に肩を叩かれて俺は目を覚ました。医者は俺に
「どうもおかしなことになった。昨日のことをもう一度詳しく聞かせて欲しい」
と言った。
全てを聞き終わった医者は、溜め息を吐きながら
「彼の精神状態が、何らかのショックでおかしくなったかもしれないんだ」
そして、
「これから別の病院に搬送して詳しく見てもらおうと思う」
俺は震え出してしまった。
これからどうすればいい。石川の親に何て説明すれば良いのか分からないまま、井上と共に石川の搬送される病院へ向かった。
※
この事件の後、俺は石川の両親から訴えられ、警察に尋問された。精神鑑定も受けさせられた。
そして今現在、俺は石川の両親に慰謝料として毎月10万円の支払いを続けている。
あれから12年、石川とは会話が出来ないまま。
あの時やめておけば、石川をこんな目に遭わせることは無かったのに。
※
俺はこの事件で、心霊現象について色々学んだと思う。信じられない人にしてみれば、馬鹿げたことでしかない。
そして、俺はそれを周りに信じてもらうことは出来なかった。
一部の人には信じてもらえたが、殆どは事実だと認めない。
それが普通なのだと、そう思うことにして否定もしない。
だけど肯定もしない……。