今から数年前、まだ僕と僕の親友が学生だった頃の話。
夏休みの自由研究のため、友人…仮にナナシとするが、僕はそのナナシと心霊現象について調べることにした。
ナナシはいつもヘラヘラしているお調子者で、どちらかと言えば人気者タイプの男だった。
居るか居ないか分からないような陰の薄い僕と何故、あんなにウマがあったのかは今となっては解らないが、とにかく僕らは何となく仲が良かった。
なので自由研究も自然と二人の共同研究の形になった。
心霊現象を調べようと持ち掛けたのは、他ならぬナナシだった。
「夏だし、いいじゃん。な? な?」
しつこいほど話を持ち掛けるナナシに若干不気味さを感じながらも、断る理由は無かったので僕はあっさり承諾した。
その時、僕は『ナナシはそんなにオカルト好きだったのか。そりゃ意外な事実だな』くらいに考えていた。
「どこ行く? 伊勢神トンネルとか?」
僕は自分でも知っている心霊スポットを口にした。しかしナナシは首を横に振った。
「あんな痛いトコ、俺はムリ」
そのナナシの言葉の意味は、僕は今も理解が出来ないままでいる。
何故「怖い」ではなく「痛い」なのか、今となっては確かめようが無い。
だが、ナナシは確かにそう言った。
※
話を戻すが、ナナシは僕が何個か挙げた心霊スポットは全て尽く却下した。
意見を切り捨てられた僕は、いい加減少しムッとしていた。
ちょうどその時、ナナシが言った。
「大門通の裏手に、アパートがあるだろ。あそこに行こう」
そのアパートの存在は、僕も知っていた。
心霊スポットだとかオカルトな意味ではない。そこは『天空の城ラピュタ』などに出てくるような、蔦や葉っぱに巻かれた風変わりなアパートだった。
特に不気味なアパートという訳ではないが入居者は居らず、それなのに取り壊されることもなく、数年…下手したら数十年、そこに在り続けているアパートだ。
「あんなとこ行っても、何もねーじゃん。幽霊がいるワケじゃなし」
「いいから。あそこにしよう」
ナナシは渋る僕を強引に説き伏せ、翌日の終業式の後に結局そのアパートへ向かうことになった。
※
時刻は16時36分。僕らはアパートの前に居た。
終業式を終え、昼飯を食べてから暫く僕らは僕の部屋でゲームなどをしていた。
何故すぐにアパートに向かわなかったのか、何故それを疑問にも思わなかったのか…。あの時の僕には解らなかったし、今の僕にも解らない。
ただ、すぐにあのアパートに向かわなかったことを、僕は今だに後悔している。否、あのアパートに行ってしまったことを後悔しているのかもしれない。
とにかく暫く遊んだ後、唐突にナナシが
「さ、そろそろかな」
と言い、僕はナナシに手を引かれてあのアパートへ向かった。
その時のナナシの横顔が何だか嬉々としていたような、逆に悲しげなような、何とも言えない表情だったことを僕は忘れないだろう。
※
そして僕らはアパートに着いた。
ナナシはひと呼吸置くと、
「終わった、な」
と言った。
その言葉の意味がよく解らなかった僕はナナシに聞き返したが、ナナシは無言のまま僕の手を引いた。
いつものナナシじゃない。お調子者のナナシじゃない…。
そんな不安が胸元にチラついたが、ナナシは構うことなくアパートの階段を上る。
そして「302」とプレートの付いた部屋の前に立った。
異様な空気が僕の背中を掠めた。
「ナナシ…?」
ナナシはそれには答えず、ドアの前にあった枯れた植木鉢から鍵を取り出し、ドアを開けた。
すると、そこには。
『人間だったもの』
が、あった。
「うぁあぁあぁあっ!!!」
僕は大声を上げてヘタリこんだ。
玄関先には女の人が倒れていて、這いずるように俯せている。
その体の下からは夥しい量の、まだ生々しい赤黒い血が水溜まりのようになっている。
僕はガタガタ震えながら、ナナシを見た。でもナナシは、
「あはははははははははははははははは!!!」
と、笑っていた。
僕はナナシが発狂したのかと思ったが、そうではなかった。
「見ろよ!!これが人間の業なんだよ!!楽になりたくて死のうとしたって、死ぬことにまだ苦しむんだ!!
この女、二日も前に腹を掻っ捌いたんだぞ!!二日だぞ!!
二日も死ねず、痛い痛いと言いながら死んだんだ!!痛い苦しい助けてと、声も出ないのに叫びながら死んだんだよ!!!!
死にたくなって腹を切ったのに、死にたくないなんて我が儘もいいとこだ!!」
ナナシが早口で捲し立てる。
僕は、死体よりも、血よりも、何よりもナナシが凄く怖かった。
「死にたくないなら死ぬんじゃねぇよ!!!死にたくなくても死ぬんだから!!!馬鹿馬鹿しいにも程がある!!!
神様なんて居やしない!!!助けてくれるやつなんか、世界が終わっても来やしないんだよ!!!!」
ナナシは叫び続けた。
僕はナナシに必死に縋り付き、訳の解らないことを口走りながら泣いた。
暫くして我に返ると、ナナシが僕の頭を撫でていた。
「警察、呼ばないとな」
ナナシは、そう言った。
さっきまでの凄まじい形相のナナシは居なかった。でも、僕の友達だったヘラヘラ笑うお調子者のナナシも、もうどこにも居なかった。
僕らは警察を呼び、簡単に事情聴取を受け、家に帰された。
僕らは一言も口を聞かぬまま、別れた。
※
その日、僕は色々なことを考えた。
何故、ナナシはあのアパートに行こうと言い出したのか。
何故、ナナシはあの女の人が二日前に自殺を図ったことを知っていたのか。
何故、ナナシはあの部屋の鍵の場所を知っていたのか。
ナナシが呟いた「終わったな」という言葉は何だったのか。
オカルト的な考えになるが、きっとナナシは死人の声のようなものが聞こえるのだろう。
死ぬ間際の断末魔などが聞こえる性質なのだろう。
ナナシが
「終わったな」
と呟いた時、あの女の人は死んだのだろう。
鍵の場所も、あの女の人の生き霊のようなものが助けて欲しくて教えてくれたのだろう。
しかし、僕らは間に合わなかったのだ。
僕はそう考え、凄く悲しくなった。僕らが間に合わなかったせいで、あの女の人は死んだのだ。まだ助かったのかもしれないのだ。
僕らが早く行っていれば――
そこまで考えて、一つの疑問が浮かんだ。
もし、もしさっきの仮説が正しくて、ナナシに不思議な力があるなら。何故、ナナシはすぐにアパートに向かわなかった? 何故、ナナシはすぐに警察なり救急車なりを、昨日の時点で呼ばなかった?
否、否否否。ナナシが早口で捲し立てていただけで、本当に自殺かどうか実際は分からない。それにあの部屋には血溜まりと死体はあっても、凶器などは見当たらなかった。
否、否否否。それ以前に、それ、以前に。僕らが部屋に入ったあの時点で、本当にあの人は死んでいたのか? もし、まだ死んでいなかったなら。そして、自殺じゃなかったなら。そこまで考えて、背筋が凍った。
※
それから暫く、僕はナナシとまともに喋ることが出来なかった。
その後、ナナシと僕はある事件を切っ掛けに永遠の断絶を迎えるのだが、それはまた別の話。