昨日、無事に就職したことを報告するため、今は亡き親友の墓参りに行って来た。
その小さな墓前には、あいつの好きだった忽忘草の押し花が置かれていた。
『死んだ人間は生きている人間が覚えていてくれるけど、死んだ人間に忘れられた、生きている人間は、どうすれば良いんだろうな』
そんな風に笑っていたのを思い出す。
そして思い出す。あの日のことを。
※
その日、前日の夜のことを引き摺ったまま僕は学校へ行った。
やはりナナシは居らず、アキヤマさんは何事も無かったかのように教室に居た。
話し掛けてみたが、やはりいつもと変わらず、昨日のことは全部夢か嘘のように思えた。
そうだ、あの変なものは、たまたまかち合ってしまっただけだ。
あの悲鳴は、ナナシがタンスに足でもぶつけたんだ。
そんな風に無理矢理、自分を納得させようとした。
※
そして授業が終わり、荷物をまとめていると、
「藤野、ちょっといい?」
アキヤマさんが僕を呼び止めた。
「何?」
と聞き返すが、アキヤマさんは
「ちょっと付いて来て」
と言うばかりだった。
仕方無く僕は、アキヤマさんの後に続くことにした。
※
連れて来られたのは、僕も何度かお世話になった大きな病院だった。
アキヤマさんは無言で中に入り、僕も後を追う内に、屋上にやって来た。
…寒気がした。そこは、ナナシの持つお母さんとの写真に映っていた、あの場所だったから。
「こっからね、おばさんは落ちたんだよ」
アキヤマさんは言った。ゾッとするほど淡々とした声だった。
「あたしがお見舞いに来た時にね、落ちて来たの。あたしの目の前に。
ケラケラ笑いながら。顔がゆっくりグチャッて潰れてね。気持ち悪かった」
いつも無表情なアキヤマさんが顔を歪めていた。
僕は何も言えず、黙って聞いていることしか出来なかった。
「おばさんはナナシにすっごい執着してた。おじさんがよその女と逃げちゃったからかな。
頭おかしくなって入院してからも、ナナシにはほんとに過剰に。
だから、あたしが仲良くするのも嫌だったみたい。気持ち悪いよね」
と笑った。
僕はそんなナナシの過去は初めて聞いたし、そんな風に笑うアキヤマさんも知らなかった。
でもアキヤマさんの話は終わらず、僕にとって最も衝撃的な一言を発した。
「屋上にはナナシが居た。この、あたしが立ってる位置に」
それが何を意味する言葉なのか、解らないほど馬鹿じゃない。
まさか、と思った。でも確信してしまった。
「ナナシが…お母さんを…?」
「ここのフェンス、おばさんが落ちるまでもうちょっと低かった。
寒い時期だったから、他に誰も居なかったし。ふふふ」
と、アキヤマさんは笑った。
アキヤマさんがおかしくなってしまったと思った。それほど怖い微笑みだった。
「その日から、ナナシは段々おかしくなった。パッと見、何も変わらなかったけど、変なことをするようになった。
変なものも、あいつの周りで見るようになった。
藤野もそうでしょ? 色々見たよね?
ナナシの家におばさん居たもんね? あれは失敗だったみたいだけど。大したことなかったし。
でもね、とうとうやっちゃったの!!!
あぶないとは思ってたよ? やり過ぎなんじゃないかなって?
でもやっちゃったの!!もう手遅れになっちゃったんだよ!!!知らない!!!!
あたし知らない!!!もうなぁあんもできない!!!!!
あはははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
狂ったようにアキヤマさんは笑い出した。
怖かった。アキヤマさんじゃない。こんなのアキヤマさんじゃない。
僕はアキヤマさんの両肩を掴んで揺さぶった。
「何で!!何が!!!何が手遅れなの!!? ナナシな何にやったの!!!!ねぇ!!!」
「だって!!!!!!
そこにおばさん居るんだもん!!!!!」
アキヤマさんがそう言って指差した先を見て、僕は全身に鳥肌が立つのを覚えた。
言葉が何も出て来ず、嗚咽のようなものが漏れた。
そこには確かに女の人が居た。
ラピュタのロボット兵のように手を垂らし、顔はうなだれていて、真っ白いパジャマを着ていた。
そして、ゆっくり伏せていた顔を上げ、グチャグチャに潰れた頭をコキッと横に曲げて、目を見開いて、ニカッと笑った。
「うぁあぁっ!!!!!」
俺は叫んで後ずさった。
アキヤマさんは指差したまま笑っていた。
怖い怖い怖い怖い怖い。それしか頭に無かった。
以前にもナナシの家で見たはずなのに、全く雰囲気が違う。気持ち悪いとしか言い様が無かった。
「キョウスケぇ、どうして逃げるのお? ママ、悲しいなあ?」
おばさんがニタニタ笑いながらこちらに向かって来る。
『キョウスケ』はナナシの名前だ。おばさんは僕らを、ナナシだと思っているのだろうか。
「ちが、僕は、ちが」
「キョウスケぇえぇええっ!!!?」
おばさんが走って来た。嫌だ。気持ち悪い。気持ち悪い。嫌だ。
「いやだぁああっ!!!!」
目を瞑ったその時、何かが燃えるような音がした。
顔を上げると、おばさんが燃えていた。否、炎の中に消えたとでも言うのだろうか、しかしその炎も消えていた。
「なに、いま、の…」
惚けていると、何かに腕を掴まれた。
振り向くと、アキヤマさんだった。
さっきまでと違い、ハッキリした表情を浮かべているが、凄く青ざめていた。
「ナナシんとこ、行こう。ヤバイ」
アキヤマさんは言った。
僕も同感だった。
僕らは手を取り病院を出て、ナナシの家に向かった。
どのくらい時間が過ぎていたのか、辺りはもう暗かった。
※
チャリを飛ばしてナナシの家へ向かった。
後ろに居るアキヤマさんはずっと無言だった。僕も何も言えなかった。
やっとナナシの大きな家の前まで来た時、何か嫌な臭いがした。焦げ臭いのだ。
「ナナシ!!!? ナナシ居る!!!?」
僕はドアに手を掛けた。すると、鍵は掛かっておらず、すんなり開いた。
不法侵入だの何だの何も考えず中に入って、辺りを見回した。
ナナシは居ない。臭いの元はどこだろう?
そう思っていた時、
「…よお?」
後ろから声を掛けられた。
振り向くと、そこにはナナシが居た。
いつものヘラヘラした笑顔と、片手に大きな斧。
「な、なし、何して…」
「どうしたんだよ、二人して。なあ?」
ナナシは笑った。でも、目は全然笑っていなかった。
まるで知らない人のようだった。
そして気付いた。ナナシの後ろの部屋から、煙が立ち上っているのに。
慌ててナナシを押し退けて部屋を見ると、そこはもう真っ白だった。
薄く見える、グチャグチャに潰された仏壇らしきものと、赤い炎。
「ナナシっ…お前」
「母さんを殺したんだ」
僕を遮ってナナシは言った。
「母さん、俺のこと殴るから。
優しいんだよ? 優しいけど、殴るから。親父の悪口言いながら、殴るから。殺したんだ。
でも、母さん居なくなったら、俺、誰も居なくてさ」
ナナシは楽しい思い出でも語るかのように、笑って言った。
僕もアキヤマさんも黙って聞いていた。
「だからね、もっかい生き返ればいいなあって。今度は優しい母さんかもしれないじゃん?
だから、頑張ったよ? 俺。頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って」
不意に、笑顔が泣きそうな顔に歪んだ。初めて見る表情だった。
「成功、したと、思ったんだ」
そう言うとナナシは、斧を壁に叩き付けた。斧は深々と壁に突き刺さった。
「なのにさあ、母さん。俺のこと殺そうとするんだ。俺、あんなに頑張ったのに。
だからもっかい殺したんだ。
でも、何回でも生き返って、俺のこと殺そうとするんだ」
ナナシは泣いていた。子供みたいだと思った。
そんなことを考えている場合ではないし、実際子供なのだから不思議なことではないのに。
それは凄く不思議だった。
「だから、ハル、一緒に死んでよ」
そんなことを考えていたとき、ナナシが言った。言っている意味が解らなかった。
「…は?」
「友達でしょう、俺ら。母さんに殺される前に、一緒に死んでよ」
ナナシは僕に言った。
ナナシの表情は、いつものヘラヘラ笑いに変わっていた。
後ろから煙がどんどんやって来るのも見えた。
僕は発作的に、アキヤマさんに
「逃げて!!」
と叫んでいた。
「僕は大丈夫だから!!火が回っちゃう!!!誰か呼んで来て!!」
迷っていたが、アキヤマさんは頷いて走って行った。
僕はナナシを何とかしようと思った。
「な、何言ってんのナナシ。お母さんなんて居ないよ。死んじゃったんでしょ。大丈夫だよ、きっと疲れてて…」
必死に言葉を並べてナナシを説得しようとした。
しかし、ナナシの後ろから迫り来るものを見て、二の句が継げなくなった。
「ひっ…」
さっき病院で見たものと全く同じものが、ナナシの後ろに居た。
何で? さっき消えたはずなのに…。そう考えていた時、ナナシが言った。
「ね? 逃げられないんだ。もう」
そしてナナシは、僕の首に手を掛けた。
ゆっくりと力を加えられて、煙のせいか僕は抵抗も出来なかった。
「怖いの、もう嫌なんだよ。一緒に死んでよ。お願いだからっ…」
ナナシが泣き笑いの表情を浮かべていた。ゆっくり目が霞んだ。
何だか、死んでやらなくてはいけない気がした。
※
そして目が覚めた時、ありがちな話だが、僕は病院のベッドの上だった。
アキヤマさんが呼んで来てくれた、大人たちに助けられたようだ。
火事も幸い酷くはならず、僕も気を失っただけで済んだ。
アキヤマさんは全容を大人に話しはしなかったようで、ただの火遊びによる火事だと思われたらしく、僕は親父に目茶苦茶叱られた。
そして大人たちの話では、僕は家の庭に寝かせられていたそうで、だから怪我も何も無かったらしい。
「…あいつは?」
そう尋ねると、大人は顔を曇らせながら、
「火元の部屋で手首を切っているのが見つかった」
と教えてくれた。
幸い命に別状は無いらしいが、
「暫く入院した後、隣りの市に住む親戚に引き取られる」
と聞いた。
「火事を起こしてしまったから、責任を感じて発作的に自殺しようとしたんだ」
と言われていたが、それは違う。
ナナシは最初から死ぬつもりだった。僕を巻き込んで。
そう思うと、許せないという気持ちが湧いて来た。
殺されそうになったこともそうだが、結局最後は一人で死のうとしたことが許せなかったのだと、今は思う。
親友だと思っていたのに、色々な意味で裏切られた。それが許せなかったのだと思う。
結局、僕はその後ナナシと一度も会うことは無かった。一度も会うことの無いまま、あいつは死んだ。
理由はよく知らないが、自殺ではなく事故死だったそうだ。
※
あれから数年が経ち、アキヤマさんは去年めでたく結婚し、僕は少し寂しい思いをしたりした。
そんな中で思う。
あの頃、ナナシがしようとしていたことを止められたなら、ナナシが怯えていたことに気付いていたなら…。
ナナシは今頃、こんな冷たい石の下に居ることなど無かったのかもしれないと。
ただ、それは全部後の祭りでしかない。どうすることも出来ない。
だからせめて忘れないようにとナナシの話を書いて来たが、今日でそれも最後にする。
今度こそ本当に、僕と僕の親友の話は、これでおしまい。