学生時代、まだ桜も咲かない3月のその日。
僕はクラスメートのアキヤマさんという女の子と一緒に、同じくクラスメートである友人の家へ向かっていた。
友人は仮に名をナナシとするが、ナナシには不思議な力があるのか無いのか、とにかく一緒に居ると奇怪な目に遭遇することがあった。
その日はそのナナシが学校を休んだ。
普段はお調子者でクラスの中心に居るナナシが学校を休むのは凄く珍しいことで、心配になった僕は放課後見舞いに行くことにした。
そこに何故か、
「私も行く」
と、アキヤマさんも便乗した訳だ。
とにかく僕ら二人は連れ立ってナナシの家へ向かった。
※
ナナシの家は学校から程遠くない場所にあった。
僕はナナシと親しくなって1年くらい経つが、たまたま通り掛かって
「ここが俺ん家」
と紹介されることはあっても自宅に招かれたことは無かったため、少しワクワクしていた。
ナナシの家は今どき珍しい日本家屋で、玄関の門柱には苗字が彫り込まれていた。
「…やばい家」
アキヤマさんが呟く。僕はこの時、
『確かにヤバイくらいでかい家だな』
などと思っていたが、今にして思えばアキヤマさんが言っていたことは全く違う意味を持っていたのだと思う。
あの時、僕がこの言葉の意味に気付いていれば僕らとナナシには別の未来があったかもしれないと悔やまれる。
しかしそれは本当に今更なので割愛する。
※
呼金を鳴らし、
「すみませーん」
と声を掛けた。
暫く無音が続いたが、1、2分後に扉が開き、背の高い女の人が出て来た。
僕とアキヤマさんは、自分たちがナナシのクラスメートであること、ナナシの見舞いに来たことを伝えた。
女の人は
「ありがとう」
と笑うと、ナナシの部屋に案内してくれた。
※
部屋に入ると、布団にくるまって漫画を読んでいるナナシが居た。
僕らに気付いたナナシがヘラヘラ笑いながら手を振る。
案外元気そうな姿に、僕は安堵した。
「何だよお前、元気なんじゃないか」
僕はそう笑いながらナナシに話し掛けた。
アキヤマさんは黙って鞄を置くと、部屋を見回した。
「何でアキヤマがいんの」
ナナシが小声で僕に尋ねた。僕も何とも答えられず、
「まあまあ」
と訳の解らない返答をした。
ナナシの声は、小声だからというのもあるだろうが、かなり掠れていて痛々しい程だった。
元気そうな見た目とは裏腹にかなり酷いのかと心配になった、その時。
「ナナシ。あれ、何」
アキヤマさんが、口を開いた。
アキヤマさんが指差した場所には、コルクボードがあった。
眼鏡を掛けて改めて見ると、何枚もの写真と、何枚かの手紙やプリントが貼られている。
中には僕らが授業中に回していた手紙もあった。
「何だよ、わざわざ飾ってんのかよ」
ナナシが手紙を大事に取っておいてくれたことが無性に嬉しかった僕は、ナナシを肘でつついた。
しかしアキヤマさんはニコリともせず、
「そうじゃなくて。その真ん中」
と、続けた。
僕は目線を真ん中に向けた。すると、そこには異様な写真があった。
「…え」
それは、どう見ても心霊写真です、といった感じの写真だった。
写っていたのはナナシと先程の背の高い女の人で、見事な夕日を背景にしている。
そこまでは何らおかしくなかった。おかしいのはナナシの一部。否、ナナシを囲むもの…と言うべきか。
女の人にもたれ掛かるようにしているナナシの顔の両端に、白いものが写っている。
それは手のような形をした、白い靄だった。
「ナナシ、これ…」
「ああ、それか」
少しガタついている僕に、ナナシは読んでいた漫画を置いて向き直った。
その表情は哀しそうで、そしてどこか嬉しそうでもあった。
「それは、母さんと撮った最後の写真なんだ」
ナナシはそう言って語り始めた。
「俺の隣が母さん。2年前に、死んだ」
ナナシは少し俯いて言った。
「その写真を撮った次の日に、その写真を撮った屋上から飛び降りた」
淡々とした言い方だったが、それはナナシが背負ってきた悲痛が全て凝縮したような切ない響きを持っていた。
見事な夕焼けを背にして笑う親子、まさかそれが翌日には哀しい別れ方を迎えるなんて、哀し過ぎる。
「その写真、母さんの誕生日に棚整理してたら見つけてさ。半年くらい前。2年前に現像して見た時は確かに何も写っていなかったんだけど。そんとき改めて見たら、その靄が写ってて」
僕は黙って聞いていた。アキヤマさんも、じっと写真を見つめて黙っていた。
※
僕は今更、ならばさっき会った女の人は何だとか、解り切った追求をする気は無かった。ナナシと居たら怖い体験をするというのは、それこそ今更だったし。
きっと亡くなった後もナナシのお母さんはナナシが心配で、この家に居るのだろう。遺して来たナナシが心配なのだろう。そう思った。
「その靄、手の形してるだろ? 俺も最初は怖かったけど、見ている内に、きっと母さんが俺を守ってくれてんだ、って思ってさ。その手がきっと俺を守ってくれてるんだ、って思って」
ナナシはそう言って笑った。
「だから、飾っちゃってるわけ。マザコンぽくて、アレだけどな」
ナナシは掠れ声でそう言うと、いつもより少し照れたようにヘラッと笑った。
僕はうっかり泣きそうになるのをグッと理性で押さえ、
「このロマンチストが」
なんて馬鹿馬鹿しいツッコミを肘で入れた。
ナナシとは怖い体験も何度かしたけど、この話を聞いてやはり僕はナナシを好きだと思った。
そして僕らを見て
「ありがとう」
と笑ったナナシのお母さんの顔を思い出す。
僕はナナシとずっと友達でいよう。あのお母さんの分もナナシの傍にいよう、と心底思った。
その時、
「元気そうで何よりだわ。明日は学校で会いたいわね」
と、アキヤマさんが唐突に言った。一瞬にして先刻までの感動ムードが吹っ飛ぶ。
アキヤマさんはそんな空気の変化を無視して鞄を抱え、
「お大事に」
と一言掛けると、部屋を出た。
僕は一瞬呆気に取られたが、我に帰り、慌ててアキヤマさんを追い掛けた。
「また明日な!!!」
ナナシにそう声を掛けると、ナナシはいつものヘラヘラした笑顔で手を振った。
それを見届けてから、僕はアキヤマさんを追い掛けて広い廊下を走った。
あの女の人は、もう居なかった。
※
僕がナナシの家を出た時、アキヤマさんは既に数十メートル先を歩いていた。
僕は必死でアキヤマさんを追い掛け、並んだところでその肩を掴んだ。
「アキヤマさん!!」
「…何」
アキヤマさんは振り返る。その顔に笑みは無く、異様なくらいの冷たさを感じた。
「何で、あんな言い方したんだよ。ナナシが可哀相じゃん、お母さんが…」
そこまで言って、僕は何も言えなくなった。
アキヤマさんが嫌悪と怯えを入り交じらせたような形相で僕を睨んでいたからだ。
「…アンタ、本当にあれが『守り手』だなんて思ってんの?」
アキヤマさんが強い口調で言った。
その真っ直ぐに向けられる視線は、信じられないとでも言うように僕を突き刺していた。
「だって…それしか」
「本当にそう思ってんならシアワセね」
アキヤマさんは心底馬鹿にしたように言い放った。
「アタシには、あの手がナナシの首を絞めようとしているようにしか見えなかったわ」
そう言うとアキヤマさんは足を早め帰って行った。
曲がり角を曲がって見えなくなるアキヤマさんを呆然と見送りながら、僕はあの写真を思い出していた。
夕焼けを背にした親子、その翌日に飛び降りて死んだ母、息子の首元にかかる手型の靄。
そして、良好そうな体調の割に酷く掠れたナナシの声。
もし仮にアキヤマさんの台詞が真実なら、僕らが見たあの人はナナシをどうするつもりだろう?
耐え難い悪寒と戦慄を感じ、僕は走った。嫌な予感が現実にならないのを祈りながら、ナナシの家が見えなくなるまで走った。
※
翌日、ナナシはいつも通り学校に来ていたが、声は更に掠れていた。
この時、既にカウントダウンは始まっていたのかもしれないが、やはりそれは今更の話。