
私はエレベーターに乗る際、たとえ誰もいないように見えても、軽く会釈をしてから乗り込むようにしている。
それには、ある出来事がきっかけとなっている。
※
数年前のこと。
私は仕事で頻繁に訪れていた取引先のビルで、ある夜遅くまで打ち合わせをしていた。
その日は特に難航した案件で、ようやく目処がつき、解放されたのは夜の9時頃だった。
オフィスフロアには誰の気配もなく、ひんやりとした無機質な空気が広がっていた。
私はそのままエレベーターに乗り込んだ。
辺りに誰の姿もなく、完全に一人きりだと思った。
緊張からの解放感と、誰もいないという安心感から、つい気が緩んだのだろう。
わざとではなかったが、思わず「スゥ〜」と放屁してしまった。
(……しまった、けっこう臭うな……)
自分でも思わず眉をひそめるほどの臭気だった。
ただ、そのビルでは1階以外で人が乗り降りすることはほとんどなく、会社のある4階からそのまま下まで降りていけるだろうとタカをくくっていた。
ところが——。
※
エレベーターが静かに降りていく中、私の左側から小さな「うっ……」という声が聞こえた。
(え? まさか……人がいた?!)
驚いて咄嗟に右に体をよけ、恐る恐る左を見た。
そこには、私と同じようなスーツ姿の男性が、顔をしかめながら立っていた。
(うそだろ……乗った時、誰もいなかったはずだ……)
混乱と恥ずかしさで顔から火が出るような思いだったが、すぐに小さな声で謝った。
「す、す、すいません……」
その男性は、しかめた顔のままゆっくりこちらに顔を向けかけたが、どうやら臭いがまだ残っていたのか、途中でまた「うっ……」と目を閉じて正面を向き直した。
(……勘弁してくれ……)
気まずさで、早く1階に着いてくれと心の中で必死に念じていた。
そして、その時——。
1階に到着するほんの手前で、そのサラリーマンはふっと、何の前触れもなく、まるで空気に溶けるように消えてしまったのだ。
※
「……えっ?」
思わず声を上げ、エレベーター内を見回した。
しかし、そこには彼が存在した痕跡すらなかった。
私はそのまま1階で降り、静かに閉まるシルバーのドアを呆然と見つめていた。
しばらくして、私はようやく理解した。
——あれは、たぶんこのビルに出ると噂されていた幽霊だったのだろう。
私の放屁に眉をしかめた彼の表情が、どうしても忘れられなかった。
例え相手がこの世の者でなかったとしても、あまりにも失礼なことをしてしまったという気持ちは消えなかった。
私は深く頭を下げてから、静かにビルを後にした。
※
それ以来、私はエレベーターに乗る時には、必ず軽く会釈をしてから乗るようにしている。
見えていなくても、誰かが先に乗っているかもしれないから。
ちなみに、その取引先のビルに出るという幽霊は、今ではすっかり姿を見せなくなったそうだ。
……もしかすると、私の放屁がよほど強烈だったのかもしれない。