ある病院での話。
病理実習でレポートを提出する役になった実習生のAは、助手から標本室の鍵をもらう時にこんな話を聞かされました。
「地階の廊下で、おかっぱ頭の女の子がマリつきをしているのを見たら、絶対目を合わさず、話しかけられても喋るなよ。
いっぺん返事をしてしまうと、凄い力で手を掴まれ、こう言われるんだ。
『私って、大人になったらどんなだと思う?』
そう言うと見る見る美女に変身し、
『こうなれたはずなのに、お前達のおかげで…』
と化け物の顔になって襲って来るらしいぞ」
「…で、それから?」
「それから…って、まあそういう話だから」
※
何と古臭いホラ怪談だろうかと思いながら、Aは標本を探し出し実習室へ帰って行こうとしていました。
すると、どこからともなくマリつきをしているような音が聞こえる。
見ると、来る時には気付かなかったが、霊安室がほんのり明るくなっており、その前で小さな女の子が手マリを持って佇んでいるではありませんか。
Aの心臓は縮み上がりましたが、常識が現実に引き戻します。
何を考えているんだ、この子は現実の存在だ。家族に不幸があって、ここで待っているだけなんだ。
何を怖がることがある…。
ぎくしゃくと通り過ぎようとするAを、女の子が呼び止めました。
子供に似合わぬ刺すように鋭い視線を寄せ、
「せんせい、お母さんのしゅじゅつの様子はどうですか?」
と聞きます。
落ち着きかけていた彼の心臓はまた凍り付きそうになります。
手術って…何で霊安室前でそんなことを…。
ああ、やはりこの子は霊なんだ。
母親と一緒に事故にでも遭って死んだのに、母親を心配して、自分はまだ生きているつもりで、白衣の人間に様子を聞いているんだ。
そして、母親と自分を救えなかった恨み言を言い始めるんだ…。
何も言ってはいけないという忠告もどこへやら、彼は蒼白になって言い訳を考えます。
僕はね、白衣を着ているけど医者じゃないんだ。まだ勉強中なんだ。
お母さんや君のことはとっても気の毒だけど、僕は関係ないんだ…。
そう言おうとした時、霊安室横のドアが開け放たれます。
彼は声にならない叫びを上げながら、そちらに向き直りました。
そこには、目を真っ赤に泣き腫らした若い男性が立っていました。
そして先程の子供を手招きし、抱きすくめました。
震えながら壁にへばり付いているAと目が合って、男性は訝しげながら会釈し、普通ならぬ様子に
「子供が何か?」
と尋ねて来ました。
新手の霊の登場かという疑いも捨て切れないAは、それでも落ち着きを次第に取り戻し、掠れる声で答えます。
「お子さんがお母さんの手術のことを聞いて来られたもので、事情が判らなくて…」
男は苦い笑みを微かに浮かべました。
「そうですか。実は女房が急死しましてね。病院に着いた時にはもう…。
今解剖中なんです。
お母さんの体の中をもう一度調べてもらうと子供に説明したら、
『死んじゃった後でも手術して助けてもらえるんだね』
と言うから、そうなったらいいねって…」
暫し呆然と立ち尽くした後、Aは
「ご愁傷様でした」
と頭を下げ、まだ震える手足を急かせてその場を去りました。
振り返ると、その親子は薄暗い廊下でいつまでも寄り添いすすり泣いていました。
体に血の気が戻って来るのと、ガラにもなく涙が込み上げて来るのを感じながら、これは本物の怪談だった方が余程ダメージ少ないだろうな、とAは感じたものでした。
※
…Aはその後、基礎研究の方向に進みました。
「臨床だと、毎日の仕事がああいう悲しみの上に成り立つのかと感じたから」
と言っていました。