昔、酒に酔った父から聞いた話だ。
私の実家は曳船業…簡単に言うと船乗りをしている。
海では不思議なことや怖いことが数多く起きるらしく、その中の一つに『囁く声と黒い影』というものがある。
夜、船に乗っていると、人の囁き声が聞こえて来る。
その声は小さ過ぎて、どんな話をしているのかは分からない。
しかし、はっきりと人の囁き声だと分かる。
その声が聞こえた時は、水面に立つ人影が必ず見える。
私も一度だけその影を見たことがある。
※
あれは小学生の頃に連れて行ってもらった、イカ釣りの時のことだ。
ぼそぼそと囁く人の声が聞こえ、その声の主を探そうと辺りを見回す。
すると、50メートルほど先に人影が立っていた。
最初は浮標かと思ったが、その影は動かない。
波があるにも関わらず、その空間だけぽっかりと穴が空いたような真っ黒な人影は、ピクリとも動かずそこに立っていた。
ふと横を向くと、客として乗っていたおじいさんにこう言われた。
「あまりアレを見るんじゃない。アレの顔を見ると良くないことが起こる」
※
ここからが父から聞いた話だ。
20年前、会社の従業員を8人ほど連れて飲みに出掛けた。
その時、従業員の一人がこんなことを言い出した。
「最近、影が近付いて来ている気がするんです…」
夜でなくとも海は距離感が掴み難く、その頃は仕事が立て込んでいた。
そして彼は普段から臆病なところがあった。
その為、父は疲れと怖れからそんな勘違いをしているのだろうと諭し、彼に何日かまとまった休みを与え、その日は解散となった。
彼が亡くなったのは、その2ヶ月ほど後のことだった。
船が沈没したのだ。
その時のことは、断片的にだが私も憶えている。
夜中にバタバタとした音で目が覚めると、父が大きな荷物を持ち、急いで家から出て行った。
翌日、祖父母の家に預けられ、母と父には一ヶ月ほどまともに会えなかった。
海難審判や亡くなった従業員の葬儀など、詳しいことは判らないが、とにかくとんでもないことが起きたということは幼い私にも理解出来た。
船が沈んだ理由は結局よく判らなかった。
可能性としては、エンジン系統の不具合が最も高かったようで、整備不良などの責任を問われ、父が海難審判に呼ばれたらしい。
しかし出港前の検査の結果や普段の管理の様子から、父や会社には落ち度が無いということが判った。
その騒動が一段落した頃、父は他の従業員からこう言われた。
「あいつ、あの後もずっと言ってたんです。やっぱり勘違いじゃない、近付いて来てるって。海に出るのが、夜が怖いって」
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「自分の手が及ばないことだったとは解っていても、後悔してもしきれん。
だがこれだけは覚えておけ。海を甘く見るな。海はお前が思っている何倍も怖い場所なんだ」
父はそう話を締め括った。