家に古いオルガンがあった。
私が生まれるより前に、母が中古で買ったらしい。
小学生の時に一度だけ弾こうとしてみたが、ベース(足用鍵盤)の音が全く出なかった。
※
時は流れ高校生になり、三学期の中間考査の勉強をしている時だった。
テスト勉強は本番の二日前か前日にしかやる気が出ず、その時も前日の深夜遅くまで勉強していた。
一時半になった頃、一階のリビングからオルガンを弾く音が聞こえてきた(私の部屋は二階にあり、そこで勉強していた。聞こえた曲は、名前は忘れたけど多分有名な曲)。
ベース音がないので、とても頼りない音だった。
この家でオルガンを弾けるのは母だけなのだが、母はもう寝ているし、この時間帯に弾くほど非常識じゃない。
オルガンの音を聞くのは久しぶりだし、この時間帯なので少し怖かった。
暫く待っても止める気配がない。
曲もループしているし、気になって勉強できないし眠ることもできない。仕方なく見に行くことにした。
真っ暗なのは怖かったから、廊下や踊り場の電気を全て点けながら向かった。
「………!」
リビングの電気は点いていなかった。それなのにオルガンの音は聞こえる。
さっきより、音が少し大きい気がする。
母が弾いてるのだとしたら、どこか頭がおかしくなってしまったのかも知れない。
そうだとしても十分怖いが、
『本当に、お母さんなのか』
などと考えてしまい、恐怖でリビングのドアを開けられなかった(常識的に考えれば、オルガンを弾いているのは家族の誰かなのだが、現状が不気味過ぎた)。
※
5分くらい固まって冷や汗を流していたら、突然オルガンの音が止んだ。
何と言うか、静かになると逆に滅茶苦茶怖かった。
何かあればすぐにでも泣いてしまいそうで、体の中心に向かって物凄い圧力が掛かったように感じた。
しかしそれを切っ掛けに、早くドアを開けないといけない気もした。
静かな中にドアを開ける時の音が大きく響き、かなりビビった。
真っ暗では何も見えないので、電気を点けた。
体は熱いのに、頭は血が少ないのか冷たく感じ、冷や汗が凄かった。
オルガンの前に母は居なかった。誰も居なかった。
こんなことが、次の日もあった。音が止んでからリビングに入ると誰も居ないのだ。
母に話しても、分からない、知らない、寝ぼけたんじゃないか、などとしか言われなかった。
※
また次の日も、オルガンの音が鳴り出した。
三回目でも相変わらず、と言うか三回目だけにかなり怖かったが、もう今回は音が聞こえるうちにリビングに入ると決めていた。
二階から一階までをダッシュで駆け抜け、足がすくむ前にそのままリビングのドアを開けた。
女の人が居た。
ワンピースを着ていて、後頭部には髪の毛が生えていなかった。
私は驚きのあまり声も出ず、体も動かず、なのに汗だけは体のどこかが壊れてしまったように流れていた。
女の人が振り返った(この動作はとてもゆっくりで、多分十秒くらいかけて振り向いた)。
暗い上に、結構距離があったので顔はよく見えなかったが、多分目に何かがびっしり刺さっていた。口は私よりかなり大きかったと思う。
顔も凄いが、それでも一番印象的だったのは、足がないことだった。
普通の人間を見慣れた私にとって、それは視覚的に圧倒的な違和感を与えた。
女の人がいきなり絶叫した。
動けない私は、泣いてしまった。踏み潰されたような声を出して泣いてしまった。
女の人が絶叫している時間は無限にも感じられたが、実際は数秒だったのだろう。
また突然叫ぶのを止めて、そのまま固まってしまった。
女の人に背を向けるのは本当に怖かった。
しかし私はその瞬間、全力でリビングを飛び出し、玄関を駆け抜け、外に走り出した。家の中には居られなかった。
女の人が付いて来ていないのを確認して、そのまま朝まで外で過ごした。
朝、家に女の人は居なかった。家族は何も知らないようだった。
あのおぞましい絶叫も聞かなかったらしい。
※
その一ヶ月後、私は交通事故に遭った。自転車でバイクとぶつかったのだ。
下半身が、恐らく一生、動かなくなってしまった。
またその二年後、母が新しいオルガンを買った。
今度の新しいオルガンは、ベースの音も良い。母は楽しそうだった。
私も一度だけ弾こうとしたが、やはりベースは弾けなかった。