蔵の三和土(たたき)に置かれたその球だけが、夕方になると湿った。
まわりの箪笥も、俵も、梁も、指でなぞれば白い埃が付くほど乾いているのに、球の表面だけが、うっすらと汗をかく。
昭和五十八年の夏、私は二十一で、その理由を知らないまま十一日間その蔵に通った。
大学の民俗学のゼミで、熊野灘に面した集落の民具調査をすることになった。
紀伊半島の東側、入り組んだ湾の奥に、家が六十軒ほど並んでいる。
バスは日に三本。
集落の名は伏せておく。
調査といっても、実際にやることは地味だ。
旧家の蔵に入れてもらい、道具を一つずつ縁側に出して、寸法を測り、写真を撮り、台帳に書く。
それを一日じゅう繰り返す。
宿は集落の高台にある寺だった。
本堂の裏の六畳を借りて、教授と二人で寝起きした。
朝は五時に鐘が鳴る。
飯は寺の奥さんが炊いてくれて、おかずはたいてい鰺の干物と茄子の煮浸しだった。
「若いのに、そんだけしか食べんの」
「充分です」
「都会の子は、暑いと食べんな」
その夏は、たしかに暑かった。
昼は三十五度を超え、蔵の中だけが妙に涼しかった。
夕方になると、湾から風が上がってくる。
その風には、いつも潮と、それから土の匂いが混じっていた。
集落の子どもは、寺の石段でよく遊んでいた。
私が通ると、決まって同じことを聞いてくる。
「にいちゃん、たま見た?」
「見たよ」
「濡らした?」
「濡らしてない」
すると子どもたちは、なぜか安心したように笑って、また石段を駆け下りていった。
あとで思えば、あの集落では、子どもですらそれを知っていたのだ。
その年の相手は、集落でいちばん古いという田渕さんの家だった。
母屋も蔵も、江戸の終わりに建てたものだと聞いた。
「若い衆、蔵は好きに開けてええ」
田渕さんのお祖父さんは、そう言って鍵をくれた。
そのあとで、ひとつだけ付け足した。
「奥のたまには、水かけたらいかん」
「たま、といいますと」
「見たら分かる」
本当に、見たら分かった。
※
蔵のいちばん奥、米櫃の陰に、それは置かれていた。
直径は三十センチほど。
漆喰のような、灰色がかった白い球だ。
継ぎ目はない。
表面に、大陸と島の形が、ごく低く浮き出ている。
盛り上がりは、爪の厚みほどしかない。
けれど、光を斜めから当てると、輪郭がはっきり見えた。
私はそのとき、中学の頃に読んだ本のことを思い出した。
播磨の寺に、聖徳太子の地球儀と呼ばれる古い球が伝わっている、という話だ。
そこにも、当時の日本人が知るはずのない土地の形が浮いていると書かれていた。
本物かどうかは私にも分からない。
ただ、その話を思い出した瞬間に、指先が勝手に球へ伸びていた。
触れて、驚いた。
湿っている。
三和土は乾いていた。
蔵の空気も乾いていた。
それなのに、球の表面だけが、汲みたての茶碗の外側のように湿っていた。
「先生、これ」
私が声を上げると、入口にいた教授が振り返らずに答えた。
「触ったか」
「触りました」
「拭くなよ」
それだけだった。
※
調査の三日目に、私は妙なことに気がついた。
浮き出た形が、増えている。
初日に写真を撮っていたので、並べて比べれば分かった。
球の下のほう、日本でいえば紀伊半島に当たるあたりに、初日にはなかった細い入り江が浮いていた。
幅は、爪の先ほど。
次の日には、その入り江の口に、小さな島の形が二つ増えていた。
私は教授に見せた。
教授は写真を三分ほど眺めて、それから台帳に何も書かずに返してよこした。
「乾板の癖やろ」
「いえ、同じカメラで同じ場所から撮っています」
「そうか」
そう言って、教授は蔵を出ていった。
そのとき、私はもうひとつのことに気がついていた。
教授は毎朝、球の下に敷いてある古い座布団を、乾いた面に返していた。
裏返す、というより、湿った面を隠すような手つきだった。
※
四日目に、私は集落の役場の出張所へ行った。
民具の台帳を作るとき、字(あざ)の名前を確かめる必要がある。
出張所の職員は、埃をかぶった地籍の控えを出してくれた。
明治の終わりに作られたものだ。
そこに、聞いたことのない字名が一行だけ載っていた。
「越(こし)ノ内」
面積の欄も、地目の欄も空白で、名前だけがある。
「これは、どのへんですか」
「さあ。うちの地図には出てきませんな」
「ほかの年の控えは」
「大正のも昭和のも、この行はありません」
職員は少し笑って、こう続けた。
「書き損じでしょう。昔の役場は、そういうのが多いですから」
私はその字を手帳に写した。
写して、蔵に戻って、球を見た。
三日目に浮いた入り江の形が、地籍の控えに描かれていた小さな図と、同じ向きに曲がっていた。
※
五日目に、私は湿る時刻を記録することにした。
三十分ごとに蔵へ入り、球の表面を指の腹で触れて、手帳に○と×を書いていく。
五日ぶんを並べて、私は自分の手帳を二度見直した。
湿りはじめる時刻が、毎日およそ五十分ずつ遅れていた。
五十分。
潮の満ち引きと同じ幅だ。
出張所でもらった潮位表と重ねると、球が湿るのは、いつも満潮の一時間ほど前だった。
そして乾くのは、干潮を過ぎてからだった。
蔵は湾から三百メートル離れた山の際にある。
床下に水が来る場所ではない。
それでもその球は、海の呼吸に合わせて汗をかいていた。
私はその晩、はじめて寝つけなかった。
寺の窓を開けると、湾のほうが白く光っていた。
満潮だった。
※
六日目、集落の老人会の集まりに呼ばれた。
調査に協力してもらう礼として、缶ビールを二箱担いでいった。
話が漁の昔話に移ったところで、私は例の入り江のことを聞いてみた。
座がしんとなった。
いちばん年上の、九十を超えたという老人が、口を開いた。
「昭和二十八年の高潮でな」
「はい」
「向こうの浜が、いっぺんに持っていかれた」
「持っていかれた、といいますと」
「浜も、家も、道も、ぜんぶ水の下じゃ。あそこはもう、地面が無い」
老人はそこで、湯呑みを置いた。
「けどな。近ごろ、戻ってきよる」
「戻る、とは」
「潮が引いたとき、砂が出るんじゃ。年々、ちょっとずつ増えとる」
別の老人が、笑いながら口を挟んだ。
「そら砂やろが。海の砂は動くもんじゃ」
「動く砂が、同じ形になるかい」
その一言で、また座が静かになった。
帰りぎわ、いちばん年上の老人が、私の袖を引いた。
「たまに水かけたら、いかんぞ」
「田渕さんにも言われました」
「濡らすと出てくる形はな。まだ無い場所じゃ」
「まだ、無い」
「これから出来るほうの場所じゃ、いうことよ」
※
七日目、私は蔵の道具をひととおり測り終えた。
箕(み)が四つ、唐箕が一台、漁具が二十六点。
台帳の枠は、あと三行しか空いていなかった。
球を載せるかどうかで、私は迷った。
民具の台帳は、用途の分からないものを載せない決まりになっている。
「先生、あの球は」
「載せんでええ」
「用途不明として一行だけでも」
「載せんでええ、と言うた」
教授の声が、その日だけ少し大きかった。
私は黙って、三行を空けたまま台帳を閉じた。
いま思えば、あの人は載せることを恐れていたのだと思う。
紙に写す、というのは、そういうことなのだろう。
※
八日目に、私は蔵で写真の束を借りた。
田渕家に伝わる、集落の古い写真だ。
いちばん古いもので、昭和六年と裏書きがあった。
湾を高いところから撮った一枚に、私は目を止めた。
写っている海岸線が、いまの湾と違う。
右手に、細い入り江が写り込んでいた。
球に浮いたのと、同じ形だった。
ただ、昭和六年にはまだ、あの高潮は起きていない。
つまりこの写真の入り江は、失われる前の姿ということになる。
そう考えて、私はいったん納得しかけた。
納得しかけて、写真の隅に気がついた。
入り江の岸に、人が一人立っている。
傘を差していた。
撮影の日付の下には、はっきりと「快晴」と書かれていた。
私はその写真を、蔵の窓際まで持っていった。
光に透かすと、傘の下に、白いものが見えた。
顔ではない。
顔があるべき場所に、丸いものが載っていた。
大きさは、掌ふたつぶんほど。
三十センチ、といったところだ。
私は写真を伏せて、そのまま束の下に戻した。
その日は、それ以上写真を見なかった。
※
九日目の夕方、寺の奥さんに、集落のことを少し聞いた。
湯呑みを置く手が、話の途中で一度止まった。
「あの浜のことはね、みんな喋りたがらんのよ」
「高潮のことですか」
「そうやなくて。戻ってきよる、いう話のほう」
「砂が増えているという」
「増えとるのは、砂だけやないんよ」
奥さんは、そこで言葉を切って、鰺をひっくり返した。
「去年の秋にね、湾で網に石が掛かったの」
「石」
「四角い石。加工した跡があって、家の礎石やないか言うて」
「引き上げたんですか」
「引き上げようとして、やめたの。皆で相談して、そのまま戻した」
「なぜです」
「まだ途中やから、いうて」
その言い方が、いちばん怖かった。
沈んだものが戻るのではなく、いま作られている途中だと、この集落の人は考えているのだ。
※
十日目の夜、私は宿にしていた寺の部屋で、その日の記録をまとめていた。
フィールドノートは、罫線のある大学ノートだ。
その日の項の末尾に、書いた覚えのない一行があった。
「まだ足りん」
私の字ではない。
私の字は右上がりで、その行は、まっすぐだった。
鉛筆の濃さも違った。
私は、そのページを破らなかった。
破ったら、次はどこに書かれるか分からない気がしたからだ。
翌朝、蔵に入ってすぐ、私は球の前にしゃがんだ。
朝の球は、いつも乾いている。
その乾いた表面に、指の跡が三つ、残っていた。
湿っていたときに触れた跡が、乾いて白く残ったのだ。
私は自分の右手を近づけた。
親指の跡に、私の親指が重なった。
人差し指の跡にも、ちょうど重なった。
三つ目は、中指の位置だ。
けれど私は、球を持ち上げたことは一度もない。
いつも、二本の指で触れるだけだった。
三つ目の指の跡は、私がこれから触る場所に、先についていた。
※
その日の午後、私は教授に、はっきりと聞いた。
「先生は、この蔵に来たことがありますね」
教授は台帳を閉じた。
「三十年前にな」
「そのときも、あの球はありましたか」
「あった」
「形は」
「いまより、少なかった」
それから教授は、座布団の話をした。
湿るのは、いつも夕方だという。
そして、湿りが座布団まで届いた年には、湾の砂が増える。
三十年前、教授と一緒に来た学生が一人、その座布団を洗った。
洗って、干して、乾いたものを敷き直した。
「そのあと、その人は」
「調査の最後の日に、湾のほうへ行くと言うて出た」
教授はそこで言葉を切った。
「バスには乗っとらん。船にも乗っとらん」
「では」
「わしが知っとるのは、そこまでや」
私は、聞かなくてもいいことを聞いてしまった。
「その人の名前は」
教授は台帳の角を指で揃えながら答えた。
「越智(おち)という」
「越智」
「越(こし)ノ内の越に、知る、と書く」
私は手帳を開いた。
四日目に写した字が、そこにあった。
偶然だ、と自分に言い聞かせた。
言い聞かせたが、その晩、寺の窓を閉めて寝た。
教授は、そのあと一度も球のほうを見なかった。
※
調査は十一日で終わった。
最後の朝、私は蔵の戸を閉める前に、もう一度だけ球を見た。
浮き出た入り江は、初日より明らかに長く、深くなっていた。
入り江の奥に、四角い形が二つ、新しく浮いていた。
家の形に見えた。
私は触れなかった。
指の跡は、三つのままだった。
その代わりに、私は手帳を開いて、写した字を確かめた。
「越ノ内」
それを消しゴムで消した。
浮いた形を紙に写した者は、そこへ行くことになる。
老人が言ったのは、たしかそういう意味だったはずだ。
消したあとも、紙には筆圧の溝が残った。
それから、私はページをめくった。
めくった次の白いページに、同じ二文字が、鉛筆の腹で薄く写っていた。
下敷きを使わなかったせいだ。
そう考えるのが正しい。
けれど、写っていたのは私が書いた「越ノ内」ではなく、三文字だった。
三文字目までは、読めなかった。
※
帰りのバスは、朝の一本だけだった。
停留所まで、田渕さんのお祖父さんが見送りに来てくれた。
「若い衆」
「はい」
「たまは、な」
お祖父さんは、湾のほうを向いたまま言った。
「昔から、あの家にあったわけやない」
「といいますと」
「高潮の年に、浜のほうから流れてきたんじゃ」
「流れて」
「持ってきた者は、おらん。朝、蔵の前に転がっとった」
バスが来た。
乗り込んでから振り返ると、お祖父さんはまだ同じ姿勢で湾を見ていた。
※
あれから四十年になる。
私は結局、研究のほうには進まず、いまは別の仕事をしている。
集落には、一度も行っていない。
去年、たまたま古い航空写真を扱う仕事があって、あの湾の一帯を見る機会があった。
昭和五十八年の写真には、あの入り江は無い。
平成の初めの写真にも無い。
いちばん新しい、去年撮られた一枚にだけ、細い入り江が写っていた。
形は、あの球に浮いていたものと同じだった。
奥に、四角い影が二つある。
私は縮尺を確かめて、そこが、地図の上ではまだ海であることを確認した。
それきり、その仕事の話はしていない。
ひとつだけ、書いておきたいことがある。
去年の夏から、うちの押入れの奥が、夕方だけ湿る。
床も壁も乾いているのに、そこだけだ。
雨漏りではないことは、業者に見てもらって分かっている。
妻には、押入れのことは話していない。
湿るのは夕方だけで、朝になれば乾いている。
だから、私が黙っていれば誰も気づかない。
ただ、去年の秋に一度だけ、孫が押入れを開けたことがあった。
四つになる子だ。
その子は、奥を覗き込んで、こちらを振り返って言った。
「じいじ、まるいのある」
「なにもないよ」
「ある。しろいの」
私は襖を閉めて、その子を抱いて部屋を出た。
それから、押入れの前に本棚を置いた。
本棚の裏は、いまも夕方になると湿る。
拭いてはいない。
私はまだ、その場所に手を入れていない。
入れたら、指の跡が幾つ残っているかを、確かめてしまう気がするからだ。