瀧廉太郎(たき・れんたろう)という人物をご存知だろうか。
日本に於いて最も早く日本語によるオリジナル唱歌を作った一人だ。
「荒城の月」「箱根八里」「花」「お正月」「鳩ぽっぽ」など、日本人では知らない方はいないだろう。
だが、彼が不遇の人生を歩んだ事について知る方は少ない。
当時、瀧は多くの唱歌を作り人気を博した。
だが、その活躍に眉をひそめる者達がいた。それは当時の文部省に関係する人物達だ。
若くして才能に溢れる瀧に嫉妬と恐れを抱いた彼らは、ついには瀧に無理矢理ドイツ留学を命じた。
元々体が強くなかった彼は渋々ではあったが、留学を決意。
類稀なる才能で、留学先でもその花を開かせようとしていた矢先、突然結核を患ってしまった(今現在でもこれは仕組まれていたと見る動きもある)。
失意の中、帰郷した瀧ではあったが、それから23才の若さでこの世を去るまで数多くの作品を作った。
ところが、政府は瀧の病気を理由に、その多くの作品や身の回りの物を焼却処分した事が判っている。
瀧はこれまで受けた仕打ちと死後の対応を予感していたのか、一番最後の作品として『憾(うらみ)』というピアノ曲を作っている。
声楽作品しか作ってこなかった瀧が、なぜ最後の曲にピアノ曲を選んだのか。
ひょっとするとそこには言葉として残せない憎悪のメッセージが、暗号のように隠されているのかもしれない。