サイトアイコン 怖い話や不思議な体験、異世界に行った話まとめ – ミステリー

自殺の聖歌『暗い日曜日』

tab002

1936年2月、ハンガリーのブダペスト市警が靴屋主人ジョセフ・ケラーの死亡現場を調査中、奇妙な遺書を発見した。

自殺したケラーが書き残したその走り書きのような遺書には、とある歌の一節が引用されていたのだ。

自らの命を絶つ者が、辞世の句の代わりとして、愛する歌の一部を引用することは、別に珍しいことではないかもしれない。しかしこの歌に限っては別だった。

その歌は、自殺したケラーのみならず、ブダペスト市警にとっても、特別な意味を持っていたのである。

歌の名は「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」。

ブダペストでは、既にこの歌に関連した17人の自殺者が出ていたのだ。

当時、ブダペストで起きた事件とは、次のようなものである。

・バーで、ジプシーバンドがこの曲を演奏したところ、突然、男二人がその場で拳銃自殺した。

・少女が「暗い日曜日」のレコード盤を抱きしめたままドナウ河で入水自殺した。

・バーで飲んでいた初老の紳士が、バンドに「暗い日曜日」をリクエストするなり、店の外に歩き出して頭を銃で打ち抜いた。

世界各国で放送禁止に

はじめは単なる偶然と捕らえていたブダペスト市警も、ここまできていよいよ事の重大さを認めぬわけにはいかなくなった。

明確な理由は定かではないが、とにかく、相次ぐ自殺事件とこの「暗い日曜日」が、何らかの形で繋がっていることは、もはや否定出来ない事実だったからだ。

そして間も無く、当局はこの「暗い日曜日」の販売と演奏の禁止に踏み切った。

それは言うまでもなく、異常な事態だった。単なる音楽が、人を自殺へ追い込む力を持つことを認めたことになるからだ。

しかしそれだけでは、この “死の連鎖” は止まらなかった。ハンガリーで禁止される前に「暗い日曜日」は、既に海外へと輸出され始めていたからである。そして立て続けに、以下のような事件が起きた。

・ベルリンで若い女性が首つりで命を絶った。足下には「暗い日曜日」のレコード盤が置かれていた。

・ニューヨークでガス自殺した女性が、遺書に葬式で「暗い日曜日」を流すようリクエストしていた。

・ローマで、自転車に乗っていた少年が、ふと、浮浪者の前で立ち止まった。少年はポケットの有り金を全て手渡し、フラフラと河へ飛び込み、死亡した。後の調査で、浮浪者はただ「暗い日曜日」を口ずさんでいただけだ、と打ち明けた。

世界各地で「暗い日曜日」に関連した自殺が相次ぐと、この歌は、いつしか自殺の聖歌とまで呼ばれるようになった。それはもはや各国の放送局が無視できぬほど、大きな騒動となっていたのである。

最初に自粛を行ったのは、英国のBBCだった。次いで米国のラジオネットワーク各局もすぐに追従した。フランスのラジオ局では、心理学者を呼び、この「暗い日曜日」が精神に及ぼす効果の検証を行った。

しかし原因は全く掴めぬまま、ただいたずらに、”犠牲者”の数だけが増え続けた。最終的に、その数は100人以上にのぼったとも言われる。

「暗い日曜日」

「暗い日曜日」は、1933年、ハンガリーの作曲家シェレッシュ・レジェーによって作曲された(作詞ヤーヴォル・ラースロー)。

シェレッシュは失恋体験の後にこの曲を書いたが、もともと世間に発表するつもりはなかったという。それはこの曲が至極私的なものであり、決して誰にも理解出来ないものだと考えたからである。

その様子は丁度、当時の音楽関係者がこの曲を評して言った、次の言葉に象徴されている。

「この曲は悲しいなんていうものじゃない。そこには何か、底なしの絶望を強いるような力がある。この曲はいかなる人に、いかなる喜びも与えることはないだろう…」

しかし制作から3年後、シェレッシュがこの曲をようやく世間に発表すると、意外にもこの「暗い日曜日」はすぐに大ヒットとなった。

このヒットを喜んだシェレッシュは、すぐさま、曲を生むきっかけとなったかつての恋人に連絡した。これを機会に、もう一度よりを戻そうとしたのである。

しかしそこで最初の悲劇は起きた。シェレッシュからの連絡を受けたその女性は、翌日、遺体として発見されたのだ。

服毒自殺した彼女の手元には、ただ一枚の遺書が残されていた。遺書には、ただこう記されていた。

「…暗い…日曜日」

絶望の歌

後に、シェレッシュは作曲当時のことを次のように回想している。

「その時、私は成功と非難のど真ん中に立っていた。作曲者として得た圧倒的な名声は、私を酷く傷つけた。だから私は、絶望する心の叫びの全てをこの曲にぶつけていた。そのせいで、この曲を聴いた人は、私が抱いた心の叫びを、自らの中に見いだしてしまうのかもしれない」

事件からしばしの時が経ち、騒動が一段落した頃、BBCはインストゥルメンタル曲(歌のない演奏のみのバージョン)という条件付きで、この「暗い日曜日」を放送することを決定した。

しかし事件は再び起きたのである。放送再開から間も無いある晩のこと、ロンドン市警に一本の通報が入った。それはアパート一室から、延々と同じ音楽が流れ続けているという奇妙な通報だった。

警官が現場に向かい、音楽が流れ続けるアパートのドアをノックしたが、反応はない。警官がドアを蹴破って部屋に入ると、そこには女性の遺体が横たわっていた。

そしてすぐその側には、自動蓄音機がただ延々と「暗い日曜日」をリピートしていたのだった(死因は鎮痛剤の過剰摂取だったという)。

結局、この事件をきっかけに、BBCは再びこの曲の放送を自粛せざるを得なくなり、現代に至るまで、その禁は解かれていない。

自殺のトリガー

しかし現在では、この曲はその悲しくも美しい旋律から、世界中で数多くの “勇敢な” ミュージシャン達によってカバーされ、ジャンルを超えた名曲として、完全に定着しているようである。

もはや、この歌が自殺を誘発する死の歌として非難されることはないのかもしれない。

しかしそれ故に、一体なぜ、あの時代、かくも多くの人々がこの歌の為に次々と命を絶ったのか、その謎は深まるばかりである。

”人を死に至らしめる音楽” — それは人々の妄想と噂話、そして少しばかりの奇妙な事実の連鎖が作り上げた、都市伝説に過ぎなかったのだろうか。

例えば、こんな仮説もある。

”自殺を生み出していた本当の原因は、この曲ではなく、あの時代の重苦しい空気だった(1930年代は、世界的に経済不況と政治的緊張が続いた。第二次世界大戦は1939年勃発)。

つまり、この音楽は、 — 多くの名曲がしばしそう言われるように — その時代の空気を余りにも生々しく旋律として引き受けたために、時代を最も鮮明な形で象徴してしまった。

結果、その陰鬱な旋律は、人々の感情をある衝動へと駆り立てるトリガー(きっかけ)としての機能を果たしてしまったのだ”。

多分、様々な解釈が可能であろう。しかし最後に一つだけ、どうしても触れておかなければならない事実がある。

それはこの曲にまつわる一連の現象が如何なるものであったにせよ、作曲者のシェレッシュ自身、自分が生み出したこの歌の持つ強烈な ”何か” から、決して逃れることは出来なかったということである。

1968年当時の新聞は、その男の死を、次のように報じている。

ハンガリーの作曲家シェレッシュ・レジェーが、昨日、自殺遺体で発見された。

当局の発表によれば、先週の日曜、69歳の誕生日を迎えたばかりのシェレッシュは、自宅アパートの窓から飛び降り、そのまま死亡したという。

1930年代、シェレッシュによって書かれたメランコリックな歌曲「暗い日曜日」は自殺を引き起こす歌として散々な非難を受けた。

その悲しい歌は、次の一節で終曲する。

“…私と、私の心は、自殺を決意した…暗い日曜日”

モバイルバージョンを終了