数年前に、東京の某グランドホテルで客室係のバイトをした時の話です。
ある日の早朝4時くらいに、姿見(全身を映す鏡)を持ってきてくださいとの電話が入りました。
こんな時間になんでだろうと思いつつ、倉庫から鏡を出し、その部屋に運びました。
部屋では、その日ホテルで結婚式を挙げるお嫁さんとお母さんがお待ちでした。
とても感じの良いお二人でした。
ちょっと衣装のチェックをしたかったからと聞き、合点がいきました。
お嫁さんはとても幸せそうで、それがひしひしと伝わってきました。
お嫁さんとお母さんのお二人だけのようでした。
姿見を部屋の壁際まで運び、少々のチップをいただいて部屋を出ました。
※
部屋を出てから三部屋ほど進んだところで、突然、男の声で、
「ありがとうございます」
という感謝の声をはっきり聞きました。
人の気配を感じるのに姿が全く見えません。
天井を見上げましたが、通気口などありません。
テレビの音かなと耳を済ませましたが、何せ朝の4時くらいですし、廊下は鈴虫の音のような暖房の音しか聞こえません。
自分が立っている場所の部屋番号を確認しました。
仮にその部屋番号を203号室としておきましょう。
少し気味は悪かったんですが、別に怖いという感情はありませんでした。
事務室に戻るエレベーターに乗っている時に、ふと思いつきました。
さっきのお嫁さんのお父さんではないか。
お嫁さんとお母さんの二人だっただけで、勝手にお父さんが亡くなっている思い込みをしたのは失礼ですが、別に謎解きをしようとしてる訳ではないのに、自然と閃きのようにそう思ったのです。
お嫁さんのお父さんが声の正体を明かしたように感じました。
なぜか、少し良い気分になったのを憶えています。
事務室に帰って、上司に一連の話をしました。
真面目に話を聞いていた上司は、一言断言しました。
「それ、お父さんの声じゃないね」
「どうしてですか?」
「君が声を聞いた203号室、割腹自殺があったんだよ、それ以上言えないけど」
お嫁さんのお父さんではないとするのなら、誰なのか。そして、なぜ感謝の言葉だったのか。未だに解りません。