大学の友人と4人で海へ旅行に行った時の話。
いつも仲の良かった4人で旅行ということで、ずっと前から楽しみにしていた。
実際、行きの車中でもいつも通りの雑談が普段より楽しかったりして、何か訳の解らない看板や建物を見る度に笑い話にしたり。
そんなテンションだったから、着いた民宿が凄くオンボロだった時も逆に盛り上がったりした。「やべ、費用おさえすぎた!(笑)」みたいな感じで。
女将さんらしきお婆ちゃんに案内される時も、他の客や従業員は全然見えなくて、『こんなボロい民宿だからシーズンでも客いないのかな』と思った。
板張りの床は大きな音でギシギシ鳴るし、部屋にトイレは無く、廊下の共同便所だった。しかも和式。
上から釣り下がった裸電球は盛大に埃を被っていて、ちゃんと掃除しろよと毒づきたくなった。
でもトイレから少し離れた俺らの部屋は案外と小綺麗にしてあったし、メインは昼間の海遊びだからまあいいかみたいなノリになった。
取り敢えず部屋に荷物を置き、早速泳ぎに出た。
日が暮れるまで何だかんだと遊びまくって、素泊まりだったので外で飯を食い、民宿に帰ったのは夜の21時頃だったと思う。
酒を飲みながらだらだらと話していたんだけど、昼間に泳ぎまくっていたし移動の疲れもあって、日付が変わる頃になるともう眠くてダウン。適当に雑魚寝になって寝た。
※
ふと深夜に目が覚めたのは何時頃だったかな、多分そんなに長く眠った感じはしなかったので、午前2時くらいだったと思う。友人の大きなイビキが聞こえる。俺以外は爆睡しているようだ。
それで自分がトイレに行きたいことに気付いて、ああこれで目が覚めたんだと思った。そういや民宿に帰ってきてからまだ小便すらしていない。
『うげー、こんな夜中にあの便所かよー。なんか出るぜー』などとぼーっとした頭で思いながら、友人を踏まないように気を付けて便所に行くためにそろそろと部屋を出た。
床をギシギシ鳴らしながら真っ暗な廊下を半分手探りで進む。明かりのスイッチは便所の外側にあった。
あの裸電球の有様を思い出して、もし点かなかったらどうしようかと思ったが、スイッチを押すとパチンと音がして便所に無事明かりが点いた。
予想通りというか何というか、凄く弱々しい明かりだったが、ともかく用は足せる。
俺は盛大にパンツを降ろして、きばり始めた。
シーンと耳が痛いくらいの静けさというか寂しさというか…。俺の排泄音と息遣いの他には何の音もしない。
『ウ○コ出にくい。糞詰まりみたいだ。和式だから足が痛い。あの子可愛かったな』などと頭の中で色々無関係なことも考えたりしながら、とにかく早く部屋に戻りたかった。
まあ、母艦らしきメインなブツは出してしまって、後は残りを…というところだった。
※
最初にそれが聞こえた時、一瞬『んん?』と思った。
俺の勘違いではないっぽい。また聞こえた。外の廊下がギシギシ鳴っている。どうもこちらに向かって歩いている。
この奥に客室は無かったと思うから、この便所が目的地なんだろう。手前の客室にも誰も居らず、俺らの部屋以外に客は居ないようだった。
ということは、友人の誰かが目を覚ましてトイレに立ったのだろうか?
『俺が部屋に居ないのだし、便所に明かりも点いているのだから、空いていないということくらい分からないものか…』と思った。
でもひょっとしたら漏れそうだとか、腹を下したとか、その誰かさんも切羽詰った感じなのかもしれない。
それを裏付けるかのように、相変わらずギシギシと音を立てながら、誰だかは止まることなく近付いて来る。
俺は便所の内鍵が閉まっていることを確認し、『早く出てやらんとな』とまた下半身に力を込め始めた。
ついに誰かが便所の前に到着した。もしノックをされても、体勢的にノックを返すことは難しい。
なので、先に入っていること、もうすぐ終わることを知らせるべく、ドアの向こうに立っている誰かに声をかけた。
「誰だ? ○○か? 入ってんのは俺だよ。わりぃな、もう済むから。それとも民宿の人?」
返事は無かった。
パチンと音がして、便所の明かりが消えた。
「はぁ!? おい何だよ!つまらねーイタズラやめろよな」
自分の手も見えないような完全な真っ暗闇の中、パニック気味になりながら叫んだ。
「お前らマジしゃれになんねーって。このトイレ超こえーんだから」
返事は無かった。
ドアの向こうに突っ立ったまま動かないようだ。
『くそ、出たらぶん殴ってやる』と思いながら急いで残りの便を済まし、紙の場所を思い出して手探りで巻き取っていると、ドアの向こうで何かぼそぼそと呟いているのが聞こえた。
声が小さ過ぎて何を喋っているのかも判らないどころか、友人の内の誰なのかも見当が付かなかった。
尻を拭いている間もずっとぼそぼそ呟いていて、悪戯にしては度が過ぎていると思った。
あまりの演出っぷりにもう怒りは治まっていて、寧ろ苦笑いというか、よくやるわと笑えてきた。
※
またもや手探りで水を流し、俺は立ち上がった。真っ暗闇で壁に手をつきながら内鍵を探す。かんぬきが手に触れた。
ところがその段になっても、水の流れる音で少し聞こえにくかったが、相変わらずぼそぼそと呟いている。
「おい、もう出るぞ。お疲れさん。マジびびったわ。ドア開けるからちょっと離れてろ」
ドアノブに手を掛ける。
開かない。意味が解らなかった。
ノブが回らない。便所に外鍵などあるはずも無いし、なんで?
壊れたのかと思いながら両手で思い切りやっても回らない。
それでようやく理由が解って嫌な汗が出てきた。
ドアの外に立っている誰かが、物凄い力でドアノブを掴んで回させないようにしているのだ。
「へへ、まいった、もう降参だわ。勘弁してくれ」
俺はおどけて言いつつも、多分顔は笑っていなかったと思う。
水の流れる音が完全に終わり、また真っ暗闇とぼそぼそ呟く声だけに戻った時、俺は更に汗が噴き出すのを感じた。
明らかに、呟く声が大きくなっている。
内容まで聞き取れないのは同じだが、水の流れる前は消え入りそうな囁きだったのが、水の音が消えた後では確かに肉声がちゃんと聞こえる。男か女かも分からないような低い声。
その声を聞いた時、俺はまたもやパニックに陥った。
だって、明らかに友人の誰かではない。聞いたことのない声。
かと言って友人でなければ、こんなことをする理由が無い。
こいつ誰なんだ? なんでこんなことをする? さっきから何をぼそぼそ言ってる?
突然、声が止んだ。強烈に嫌な予感がして、俺は内鍵を閉めた。
その途端、ガツッとノブから音がした。俺が鍵を閉めたから回せなかったのだ。
何度かガンガンとやっていたが、俺はそれを聞きながら、ドアの向こうに居るのは人間じゃないのかもしれないと思い始めた。
その何かはまたぼそぼそと呟きはじめた。さっきよりも声が大きくなっている。
思い出したようにガンガンとドアを叩いたりもする。
それで俺は突然解ったというかなぜか確信したんだけど、このぼそぼそ呟いている声は、何か尋常ではないほど恐ろしいことを言っていると思った。そして、何が何でも聞いちゃいけないと思った。
正確に言うと、何を言っているか理解してはいけないと自分が知ってるような感じだった。
根拠は無かったが、不思議に当たり前のように確信した。
例えば、高いところから飛び降りてはいけないのと同じくらいはっきりと、致命的な結果になることが解った。
しかしそれが解ったところでどうしようもない。声は寧ろ段々大きくなってくる。
このままでは、聞きたくなくても聞いてしまうし、それが日本語なら理解したくなくとも理解してしまう。
※
いつの間にか俺は泣いていた。大声で友人の名前を呼んだり、「助けて助けて」とか「ナンマイダ」とか、とにかく泣きながら必死になって叫びまくった。
自分が叫ぶことで、ドアの向こうからの声を打ち消したいというのもあった。
それにしてもおかしい。深夜にこれだけ大声を出しているのだから、友人や民宿の人や他の客(居るなら)が起きてきても良いはずなのに。
そうこうしている間にも声はどんどん大きくなり続けている。
もう自分で叫び続けていないと、はっきりと何を言っているのか解ってしまうほどだ。
この声を聞いてはいけないと、何かとんでもなく恐ろしいことを言っていると、なぜかそう知っている自分自身を恨んだ。
俺は叫びながら、鍵だけでは不安なのかこちらのドアノブを必死で押さえ付けていたんだけど、もう駄目だと思った。
叫び過ぎて喉がやばかった。きっとドアの向こうの声はもっと大きくなってゆくだろう。
なぜこんなことに…とか、俺はどうなってしまうんだろう…と、もう泣いて泣いて何が何だか解らなくなった。
俺は中指を耳の中に突っ込んで、更に手の平で耳を覆い、便所の隅に頭を向けて背中を丸めて蹲った。
真っ暗闇なので便所のどの辺りに顔を突っ伏しているか判らないが、もう汚いだとか言っていられる状況じゃない。
叫ぶ力も無かったが、何か喋っていないと、耳を塞いでいてもあの声が理解できてしまいそうなほど、声は大きくなっていた。
俺がその時、パニックの中で何を言っていたか覚えてはいないが、多分「神様、神様、助けてください」だったと思う。
トイレの神様に祈るなんて、今考えたら例のヒット曲も相まってお笑いなんだが、その時はもう必死だった。
※
その時、頭を誰かに触られた。ビクッとして俺は顔を上げた。
ついに奴が入って来たのかと思ったが、ドアの向こうでまだ呟いている。いや、もう呟くなんてもんじゃない。大声だ。
一瞬、何を言っているか理解しそうになり慌てて俺も叫んだ。一単語すら聞かない間だったが、奴の発音は間違いなく日本語だった。
どうすれば良いのかまるで解らず、もう疲れてどうでも良くなった。何を言っているか理解した時にどうなるかは知らないが、もう好きにしてくださいと投げやりになっていた。
俺は塞いでいた耳から手を離した。その瞬間、真っ暗闇の中で手を強く握られ、引っ張られた。
『え?』と思っている内に、俺は壁があるはずのところを抜けた。
というか、その間に俺はもうドアの向こうからの声を聞いてしまっているんだが、聞こえているのに頭に入ってこない。意識は全て、俺を引く手の方に吸い寄せられている。
前後左右も上も下もない真っ暗闇の中を、何だかよく解らないが引っ張られるままにどこまでも走れた。
段々あの恐ろしい声が遠くなって行き、ついには聞こえなくなった。
走り疲れて、よろめいた。派手に倒れて尻餅をついた。身体以上に、精神的に相当に疲労している。
とにかく助かったんだとはっきり分かった時、俺は気を失った。
※
意識を取り戻した時、俺は便所に居た。ドアを誰かがどんどんと叩いている。
俺はまたもやパニックになりかけたが、俺の名を呼ぶ声と「大丈夫か!?」という声は友人達のものだった。
何より便所は今、明るい。ちゃんと明かりが点いている。
鍵を開けた瞬間、勢い良くドアが開いた。俺以外の3人の友人達の顔が並んでいた。
友人達は心配そうな顔で俺を見ていたものの、大丈夫そうだと安心したのか、「お前何してんの夜中に大声出して。巨大トカゲでも出たのか(笑)」などと冗談を言い始めた。
俺は友人達の顔を見た時の半端ない嬉しさは途端に忘れ、なんだか無性に腹が立ち「何だよ今頃!っていうかあれ本当にお前らじゃねーのかよ!!」と怒鳴った。
友人達は不思議そうな顔をして、「今頃って。お前が廊下だか便所だかで助けてとか叫ぶもんだから俺ら飛び起きて、すぐ来たぞ。したらお前便所にいるっぽいけど呼んでも返事ないし、騒ぎで民宿の人も今来たとこ」と言った。
見ると、ここに着いた時に部屋を案内してくれたお婆ちゃんが少し離れたところに立っていた。
少し困ったようなような顔で、「お客様、何かありましたんか?」などと言う。
でも何かを隠しているという訳ではなく、自分らの管理不足で虫や爬虫類などが出たかもしれないことを心配しているような感じだ。
まさか友人の冗談を真に受けている訳でもないだろうけど。
俺は「いや何でもないです。すみません」と取り繕って、とにかく友人達と部屋に戻った。
※
それからは色々と質問されたり、何かと鬱陶しいことがあったのだが、それは割愛します。
あの便所での体験を思い出す度、ドアの向こうの何かや、俺を引っ張って助けた何かは一体何だったんだろうと考える。
でもその土地や民宿での因縁話や思い当たるものは何も知らない。まあ、調べてもいないけれど。
俺が便所で寝てしまって悪夢を見ていただけという可能性もある。あと、やはり友人の悪戯だったとか。
でも、何かに手を引っ張られて走った感触は絶対に本物だった。
壁は無いのに床はどこまでも便所の床で、普通に考えると有り得ないのだが。
それと同じくらい、あの恐ろしい声をもしも聞いていたらやばかったという確信も本物だ。
あの時、助けてくれた何かにはまだ礼も言っていない。この話を書いたついでに、ここで言っとく。
まあ、今更こんなところで言ったって、届くというか伝わる訳はないけど。