祖父がまだ子供の頃の話。
その頃の祖父は、毎年夏休みになると、祖父の兄と祖父の祖父母が暮らす田園豊かな山麓の村に両親と行っていたのだという。
その年も祖父は農村へ行き、遊びをよく知っている当時小学校高学年の兄と毎日毎日、朝から日が暮れるまで遊んでいた。
※
ある日、田んぼ沿いの道を、兄と虫網を持ちながら歩いていた。
幼かった祖父は、眼前に広がる見事な青々とした稲達に感動して、思わず
「すげえ。これ、全部が米になるんか」
と声に出してしまったのだ。すると、
「そうじゃ。この村の皆が一年間食べる分じゃ」
と言いながら、祖父の麦わら帽子に手を置いた。
暫く二人でその景観を見ていると、不意に兄が口を開いた。
「なあ、健次(祖父の名前)。
『眠り稲を起こすな』って知っとるか?」
突然の質問に祖父は戸惑いながらも、首を左右に振った。
「『眠り稲』は、この村に伝わる合言葉みたいなものでな。
『稲が眠ったみたく穂を垂れても、病気じゃないから変に心配はせんでいい』っちゅう意味らしいんじゃ」
「へえ」
と、祖父は驚きと納得が混ざったような返事をする。
この稲が全部眠る事があるのかと思うと、何とも言えぬ不思議な気分になったという。
※
その夜、晩飯を食い終わり、祖父が縁側で心地良い満腹感を感じていた時、不意に兄から声がかかった。
「健次、花火せんか?」
振り向くと、大きな袋を掲げた兄が立っている。
祖父はすぐに「うん」と返事をした。
この年の子供達は、家の中では常に退屈しているようなものである。
二人は履物を突っ掛け、
「ぼちぼち暗なってきたから、気ぃ付けえや」
の声を背に外へ出て行った。
※
田んぼ沿いの道を花火を持ちながら歩く。
赤や黄の火花に見惚れながら、度々着火のために止まる。
そのまま一帯を散歩しようかとなっていた時だった。
祖父が特別大きい花火を喜んで振り回していたら、近くの民家の窓が開き、お爺さんが怒鳴った。
「くらあ!餓鬼共!そないな物振り回して、稲が燃えて駄目になりでもしたらどないしてくれる!」
いきなり知らない大人に怒鳴られて、祖父はもちろん兄もびっくりし、涙目になって逃げだしたという。
祖父は今でも、家に帰り着いてから兄が、
「くそおやじ。今に見とき」
と呟いたのを覚えているという。
※
――深夜、祖父は自分を呼ぶ声で目を覚ます。
目を開けると、徐々に輪郭を持ち始める闇の中に兄の顔が見えたという。
「なあ、面白い事考えたんじゃ」
一体何をこんな夜中に思い付いたのだろう。
「今からあの爺さんの田んぼに行って、案山子を引っこ抜いたるんじゃ。健次も来るか?」
祖父は余りに驚き、必死で首を振って拒否した。
「そうか、行かんか。それでもええんじゃ。けだし、大人達には俺じゃって事、ばらしてくれるなよ?」
祖父は頷いた。
兄は一人で行って来るのだろうか?
兄が部屋を出て行く気配を感じたのを最後に、また祖父は深い眠りに落ちて行った。
※
――翌朝。
何か悪い夢を見た気がする。
祖父は目を擦りながら、家族が待つであろう一階へ降りた。
異様に静かだ。と言うより、誰も居ない。
祖父は嫌な予感がした。
兄が取っ捕まったのじゃないだろうか?
寝間着のまま急いでわらじを履いて、外へ駆け出した。
田んぼ沿いの道を走る。
やがて例の農家が近付くと、異様な人だかりが見えた。
嫌な予感はますます強まり、人だかりを必死で掻き分け、祖父は田んぼを見た。
――そこには、案山子があった。
いや、それは兄だった。
両足を田んぼの泥に突っ込み、両手をバランスでも取るように水平にしている。
口からは涎が垂れ、目の焦点は合っていない。
「兄やん……?」
祖父はそう言うのがやっとだった。
※
家族は兄を家に引き摺るようにして連れ帰り、深刻な顔で話し始めた。
「眠り稲を起こしよったな…」
「あれは気が触れてしまってるのう…」
幼い祖父には、何の事か判らない。
結局祖父には何も判らないまま、その年は早く地元へ帰り、もう毎年兄の住む農村に帰る事はなくなったという。
※
『眠り稲を起こすな』
この言葉の真意を祖父が知ったのは、兄の葬儀のため最後に農村へ帰った時。
これが意味するのは、決して『稲が穂を垂れても~』という事ではない。
『草木も眠る丑三つ時、田んぼに行ってはならない』という、村の暗黙の了解のようなものだったのだ。
丑三つ時の田んぼに行った兄。
タブーを犯してしまった兄に、あの夜何が起こったのかは判らない。
もしかすると、化け物に襲われたのかもしれない。
とにかく、人間には想像すらできない正体を持つ伝承は、日本のあちこちにひっそりと息を潜めているのだという。