海が近いせいか、漁師さんの間に伝わる迷信のような話を近所でよく聞かされた。
『入り盆、送り盆には漁をしてはいけない』とか『海川に入ってはいけない』とか。
そういった話はうちの近所だけじゃなくても一般的みたいだけど…。
この話もそんな話。お盆ではなく地元のルールのようです。初めてやばいと思った体験です。
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釣りが好きな僕が友達Nを誘って海に行こうとしたら、船は持っているけど漁師を引退した友達の爺さんが面白そうに、
「今日から明後日まで、峰ノ州の方に行ったらいかんぞ。助けられんからな」
と、わざとらしく語りかけてきた。だけど目だけは厳しかった。
峰ノ州と言うのは、地元で呼んでる浅瀬のことです。知らない人が見たら只の磯にしか見えません。
Nが「解ってるよ、釣れなかったら帰って来るから」と返事だけして、僕とNは釣りに出掛けた。
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釣り場まで自転車で15分程で着いた。
本当は原付で来たかったのだが、Nがまだ免許を持っていなかった事と、ガソリンを入れに行くのが面倒だったため自転車にした。
釣り場には、車で来ているらしい見慣れない大学生風の二人組が居て、何か釣りのような事をしていた。
ちょうど例の峰ノ州の手前の防波堤で(2、300メートル先が峰ノ州)、暇そうに煙草を吸ったりしていた。
僕とNは少し遠慮しながら、横でいつものように釣りを始めた。
少し離れてるとは言え、見慣れない二人組はこちらの様子が気になるようで、暫くして話し掛けて来た。
少しパーマのかかった人当たりの良さげな片方が、
「こんちわ、ここ釣れるの? 全然駄目なんだよね」
警戒させない声だった。
もう一人は、隣のNの仕掛けに興味があるようで、ジロジロと竿先や仕掛け入れを観察していた。
それから二人とも色々と面白い話をしてくれ、缶コーヒーまで貰った。
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2、3分ほど話してみると、その大学生二人組の仕掛けが、この場所では全く不向きだというのがすぐに判った。
僕らはその二人が釣りたい魚が目の前の峰ノ州によく居る事を知っていたのと、その仕掛けが峰ノ州なら向いているだろうと思った。
だから良くしてもらった御礼になればと思い、峰ノ州の場所の事を話した。
その時は、もうNの爺さんが言っていた事などどうでも良かったように憶えている。
子供が行く訳ではないし、大学生と言ったらもう大人なんだし、と思っていたのだと思う。
その日、僕とNも釣れなければ峰ノ州に行くつもりでいたぐらいだ。
二人は車に荷物を積み込むと、
「ありがとね、行ってみるわっ」
と言い残してさっさと行ってしまった。
僕はあの二人に狙いの魚が釣れるとは思えなかったけど、可能性が高くなった事に少しだけ満足していた。
Nに至っては、
「釣れないようなら手伝いに行くかな?」
と言いながら、貰った缶コーヒーをん飲んでいた。
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それから30分程経った頃。
遠く、峰ノ州の磯先に先程の二人の姿が見えた。竿を持って歩いている。
更に、暫くしてこちらに手を振っているのが見えた。
「釣れたんだろうね」
とNが手を振る。
それから僕とNも自分達の釣りが忙しかったので、あの二人組の事は忘れていた。
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少し日が傾き始めた頃、気が付くと天気は曇り空に変わっていた。
グレーの空を映す海は、あまり綺麗とは言えない。
僕が紐で結んだバケツで海水を汲んで水換えをしていると、Nが
「あれ? 見て!見て!」
と峰ノ州の方を指差す。
「何?」
僕はバケツの紐を引きながら、峰ノ州を見た。
「!!」
例の二人組が、僕らから見て有り得ない場所、海の上に立っている。更にその先へ歩いているようにも見えた。
点のようにしか見えない二人だが、段々小さくなって行くのが分かる。
遠くに移動していると言うよりも、沈んで行ってるように見える。事実、上半身しか見えない。
点の片方が振り向いたのが見えた。ハッキリしないが、慌てて戻っているようだ。
もう一人はまだ振り向かない。
僕とNは多分、家を出る前の爺さんの言葉を思い出していたと思う。
僕とNは黙って、手元の道具を片付けながら様子を見守った。
一人はもう頭だけになった。そして潜るように消えた。
Nが、
「爺ちゃんの言う通りになった」
と呟き、放心しているのが感じられた。
僕もNもまだ携帯電話など持ってはいなかった。何もできないでいた。
戻っているように見えた男が、何度か海に転ぶのが見えた。
そして僕は、藻掻く男が波の表面から、複数の『白い手』のような物に絡め摂られて沈むのを見た。
Nも見えたと言っている。
三回ほど頭を出して、それを覆い引き擦り込むようにして、灰色の波が缶コーヒーをくれた大学生を隠してしまった。
僕とNは唖然としていた。
時間にしてみれば3、4分の事か、長くても10分くらいかもしれない。
取り敢えず、僕は自転車で近くの家まで警察と救急を呼びに、Nはその場に残って見守る事に。
その後の事はあまり憶えていないけど、警察と消防署に事情聴取されて、そのまま僕とNは帰った。
消防署の人が、
「後で何かあったら電話するから、電話番号を教えて」
と言う言葉が耳にまだ残っている。
※
実際に一人目の死体が揚がったのが、二日後だったと思う。もう一人は揚がらず仕舞い。
その日の事は地元でしかニュースにならなかった。
今でも思い出すが、あの『白い手』は絶対に見間違いではないと思う。
Nが爺さんに峰ノ州に行ってはいけない由来を聞いてみても、爺さんもよく知らないようで、
「ただ、あそこは昔から、この季節は行っても良い事がないから、もう行くな」
とだけ言われたようだ。
※
何年かしてNの爺さんが、
「普段見えんものが見えると人間、奥まで行くから帰れんようになる」
と言っていた。
Nはその後、好奇心で峰ノ州まで行こうとしたが、どうしても途中から足がすくんで動けなかったらしい。
特に謂れはないけどそんな場所があって、僕とNの身代わりになったのかもしれないあの二人には、今でも申し訳ないと思っています。