うちの近所にまことしやかに囁かれている「マリエ」というお話です。
オッチャンは焦っていた。今日も仕事の接待で深夜になってしまった。いつものT字路を曲がるとそこには古びた神社があった。
ほろ酔い加減のオッチャンには見慣れた風景だったが、その日は何かが違っていた。
「ぽーん、ぽーん…」
一定の間隔で音が刻まれている。
不思議に思いながらもオッチャンは歩調を早めたのだが、ふと神社に目をやると浴衣を着た小学生くらいの女の子がボールをついて遊んでいる。
深夜の神社の境内で、少女がたった一人でだ…。
違和感を感じて目をこらすと、まだ昼間の熱気が残っている深夜だというのに、浴衣ではなく古い着物を着ていたのだ。
余り深く関わらない方が良い。オッチャンは薄ら寒いものが背筋を通り抜けるのを感じたのか、そのまま神社の前を通り過ぎた。
「ぽーん、ぽーん…」
音がオッチャンの後ろをついてくる。
酒のせいで上がっていた体温は急速に冷めて行き、今まで掻いていた汗が冷や汗になるのが分かる。
…後ろを振り返ると少女がついてきていた。
うつむいてボール、いや、古風なマリをつきながら。
その少女の足は、前に進んでいるにも関わらず全く動いていなかった。そのまま足を動かさず、マリをついている手だけを動かしながら、オッチャンに近づいて来たのだった。
死に物狂いで走る。走る。走る。
息が続かない身体にムチを打って走る。しかし「その音」は確実に近づいてきている。
「その音」がおっちゃんの近くまで来た時、オッチャンは振り向いてしまったのだ。
「ぽーん、ぽーん…」
すぐ背後に少女がいた。ソレはずっと俯いていたのだが、ゆっくりと顔を上げ、吸い込まれそうな漆黒のまなざしをオッチャンのつま先から膝、腰、胴…。
そのまま視線を上げながら首まできた時。
オッチャンはまだ暗い明け方に道端にぶっ倒れて気絶していたところを発見された。あのまま目が合っていたらどうなっていたのかは誰にも分からない。
※
後日談
ひとりのバイク乗りが「マリエ」の話を聞いていた。地元の峠でも名の知れた走り屋でした。
CBR600という、とてつもなく速いバイクを操る彼は若過ぎたのだ。
下りの峠をバイクで攻め込むときの恐怖は並大抵のものではない。しかし、それでも速い彼は怖いもの知らずと呼ばれた。
その彼が神社の前に居た。
「ぽーん、ぽーん…」
軽快なエンジン音と共にこの世のものと思えない不思議な音もそこにあった。
3秒もあれば時速120km/hを出すことのできるバイクに乗る彼は「ソレ」がバイクにはついてこれないとタカをくくっていた。
アクセルを開ける。近所の家の窓ガラスが震えるような咆哮が上がる。クラッチを繋げる。古びたアスファルトでタイヤの表面をちぎりながら黒々とマークをつける。
次の瞬間、意識ごと身体を置いて行きそうな強烈な加速で神社の前から疾走する。
ヘルメット越しなのに「その音」は聞こえてきた。「その音」は確実に近づいてきたのだった。
エンジンの調子が悪いわけではない。快調そのものだ。しかし、やがて「その音」がすぐ背後まで迫ってきたのだった。
バックミラーには何も写っていない。バイクに伏せながら彼は後方を振り返ってしまった。
そこには足を全く動かさず髪を振り乱しながら前傾姿勢になって必死にドリブルをしている少女の姿があった。
ところが、とある道祖神の横を通り過ぎたところで少女の速度が落ちた。
少女は俯いたままマリをついていたが、その姿のままゆっくりと夜の闇に溶けて行ったそうな…。