天保の飢饉(1832~1839年)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。
しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まですべて食べ尽くし、後には人を食っているという噂が広がっていった。
人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。
この飢饉では疫病も猛威をふるい、おびただしい死者を出した。
青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば秋田藩では傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り、達者な者までかかり、この病で多くの人々が病死した。
しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。
この頃、津軽では食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。
さらに、留まって餓死するよりはと数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。