私が以前住んでいた部屋の話。
私は就職を機に、会社近くのアパートに引っ越した。
立地は良いけどかなり古いアパートで、家賃が安かったのが決めた理由だ。
出社一日目、早起きして身だしなみを整えていると、櫛がない。
荷ほどきの時に洗面所に出しておいたはずだけど…。
少し探したが見つからないので、仕方なく携帯用の櫛で髪をセットした。
その日、帰って来てからあちこち探したが、結局櫛は見つからなかった。
恥ずかしいことだが、私は整理整頓が苦手で、部屋の中で物を失くすこともよくある。
次からは気を付けよう、ということで新しい櫛を買って来た。
※
一週間ほどでその櫛もなくなった。
洗面台と壁の隙間、洗面台や洗濯機の下などを探したが見つからない。
今度は失くさないように注意していたはずなのに。
就職したばかりで疲れているのかもしれないと、自分を納得させた。
また新しい櫛を買って来た。
今度は櫛専用のケースを用意し、しっかりそこへ戻すことに注意した。
今度は三日も持たなかった。
しかも恐ろしいのは、就寝前にはそこにあることを確認した櫛が、朝見たら消えていたからだ。
櫛がなくなったのは夜中? ストーカー? それとも私が夢遊病なのかも?
気味が悪かったが、それで引越しする訳にもいかず、戸締りだけはしっかりするようにした。
仕事が忙しかったせいで当時はあまり考えないようにしていたが、今思えばさっさと引越ししておけば良かった。
暫く携帯用の櫛だけを使っていたが、ある日思いついてまた新しい櫛を買って来た。
私は櫛に2メートルぐらいの紐を付けて、洗面台の取っ手に固く結び付けた。
取り敢えずこれでなくなることはない…はず。
もし紐が切られていたりしたら警察に行こう。そう思ってその日は寝た。
※
翌朝起きて洗面所に入った時、私は自分のしたことを後悔した。
櫛はあった。櫛ケースの中ではなく、洗面所の床に落ちていた。
そして、その櫛にびっしりと無数の長い黒髪がまとわり付いていた。
1メートルはあろうかという長い髪。しかも何だかとても汚い髪のように見えた。
ぐちゃぐちゃに絡まっていて、何だがぬめっている。
そして、髪の端に見える赤黒い塊は…頭皮?
限界に達した私は、鞄と服を掴んで外に飛び出した。
早朝だったせいか、会社に着くまで誰にも会わなかった。それもまた怖かった。
会社はまだ開いていなかったけど、守衛さんに頼んで入れてもらった。
守衛さんに会えてようやく私は安心でき、へたり込んでしまった。
守衛さんにはかなり奇妙に映っただろうけど…。
※
トイレで身だしなみを整え、暫くしてから同僚が出社して来て通常業務をこなしているうちに、私は少しずつ冷静になってきた。
朝は訳の解らない恐怖で飛び出して来たけれど、あれは何だったのだろう。
友達に相談しようとしたが、一体どう説明したら良いのか…。
考えているうちに、もしかして寝ぼけていたのかも、夢だったのかもしれない、とも思えてきた。
とは言え、一人であの部屋に戻る気にはなれなかった。
結局、私は適当に理由をでっちあげて、友達に泊らせてもらえるよう頼んだ。
ついでに荷物を取って来る名目で、一緒に部屋まで付いて来てもらうことにした。
友達は快く引き受けてくれた。
※
夕方、まだ明るいうちに私は友達と一緒に部屋に入った。
洗面所のドアの前に立つ。すぐ後ろに友達が居るのを確認して、私は少しだけドアを開け、隙間から中を覗いた。
洗面所の床には…何もない。
ああ、良かった。やっぱり夢だったんだと思い、ドアを開けた。
私はそこで固まった。
あれが多分金縛りというやつなのだろう。目を開いたまま、体を動かすことも声を出すこともできなくなった。
洗面台の鏡の中に私が立っていた。でもその後ろに立っているのは友達ではなかった。
そこに居たのは、黒い毛の塊。それが後ろ向きの女の頭だとすぐに判らなかった。
その毛があまりに絡まり合っていて、その上、ヘドロでもかけられたかのように汚かったからだ。
ぐちゃぐちゃの頭の下から、そろそろと青白い両手が伸びてきた。
片方の手には、いつの間にか私の携帯用の櫛が握られていた。
私の後ろで、後ろ向きの女が髪を梳く。しかし絡み合った髪の毛は櫛の歯を通さない。
ぐいぐいと女が腕に力を込めるのが分かる。
ずるり。
まるでかつらが落ちるように、毛の塊が落ちた。ドサッという音を聞いた。
肌色と赤色の混ざったような女の後頭部が見えた。髪が皮ごと抜け落ちて下の肉が見えているのだ。
※
その後の記憶はない。
気付いたら救急車の中だった。
友達が言うには、私は洗面所のドアを開けた途端に倒れたらしい。そしてすぐに救急車を呼んだ。
洗面所には紐に繋がったままの櫛が転がっていたけど、髪の毛は付いていなかったそうだ。
私の鞄に入れておいたはずの携帯用の櫛はなくなっていた。
病院でした検査の結果は何の異常もなかったけれど、体調が悪いと言って少しだけ会社を休んだ。
速攻で新しい部屋を見つけて引っ越すことにした。
部屋にある荷物は父と業者に頼んで持って来てもらい、私はあの部屋には近付かなかった。
父には洗面所には絶対に入らないように念を押した。
急な引っ越しで洗面所を全く片付けなかったが、大家さんは何も言わなかった。
新しい引っ越し先でも、私は暫く部屋に櫛を置けなかった。