俺の家は広島の田舎なのだが、なぜか隣村と仲が悪い。俺の村をA村、隣村をB村としよう。
不思議な事になぜ仲が悪いのかは不明だ。A村の住人に聞いてもB村の住人に聞いても明確な理由は判らない。
強いて言えば、ご先祖様の代から互いに敵対していたと言う理由。つまり先祖の遺恨しかない。
A村とB村の人間は、結婚など御法度である。
そればかりではない。俺のじいさんなどは、B村へは決して行くなと言う。
別にB村は部落民と言う訳ではないし、A村も同様である。
「なんで行っちゃいけないの」と子供の頃の俺が聞くと、それはB村の呪いで災いを被るからだと言う。
じいさん曰く、
「A村、B村の境の道祖神を越えてA村の者がB村へ行くと、必ず禍を受ける。例えば、B村○○の四つ角では事故を起こす者が多いが、決まってA村の者だ」
「反対を押し切って結婚し、B村へ嫁いだ△△の娘が早死にした」
「B村の□□川は流れが急で深いから、5年か10年に一度事故が起こる。それが、不思議にA村の者ばかりだ」
と言ったものだった。
勿論、本当かどうかは知らない。正直なところ、俺は祟りなど信じていない。
じいさんに、なぜB村へ行くとA村の人に危害が出るのか聞いてみた。
「十九地蔵が呪うからだ」とじいさんは答えた。
十九地蔵というのはB村の××神社にある十九体の地蔵で、俺も見た事があるが、歴史を感じさせる古さはあるものの極普通の地蔵である。
「なんで、お地蔵様が人を呪うの?」と聞いても、
「それは知らん」などと適当な事を言う。
こういう因習については、若い世代ほど気にしない。俺にもB村の友達ができ一緒に遊んだほどだ。
B村の友達に「B村ではA村に行くなとか言われた事ある?」と聞いてみたが、友達はそんなことを言われた事はないと答えた。
ますます俺はじいさんの古臭さを馬鹿にして、じいさんの言っていることは気にも留めなかった。
※
ある日、俺は兄貴とB村にある□□川へ泳ぎに行った。
じいさんには禁止されていたが当然気にしない。
ところが、泳いで10分もしない内に兄貴が「出るぞ」と言い出す。
俺が全く霊感が無いのと対照的に、兄貴は子どもの頃から非常に霊感の強い男だった。
俺「なんで、いま泳ぎ始めたばっかだよ」
兄貴「いいから、かえるぞ!!」
俺は兄貴の真剣な形相に驚き、着変えもせずに短パン姿のまま衣服を持ち、走って帰った。
俺「なあ、なんで帰るん」
兄貴「お前、見えなかったのか」
俺「えっ、何が」
兄貴「なんだがよく解らんが、黒い影の様なもんが20人近くいて、それが、俺らに物凄い敵意を向けてたぞ」
『20人近い影』という事と『十九地蔵』の事が頭の中でリンクして、俺はとてつもない嫌な予感を感じた。
※
なぜ両村の仲が理由もなく悪いのか。これに納得がいったのは、俺が大学院に進学した頃である。
A村の神社より、ある文献が発見されたのだった。
それは、室町時代後期、A村とB村が××川の水利権を巡り争いを起こし、A村がB村との戦いに勝ったという内容である。
豊臣秀吉の刀狩りが示しているように、刀狩りされていない時代の農民は、後世のイメージにあるようなひ弱な存在ではなく、武装していたのである。
兵農分離も進んでおらず、農民と武士の境目は曖昧である。
だから戦に勝った記憶は大変名誉な事として、誇らしげに記述されたものだった。
けれども、時代が下って、平和な江戸時代。
このような不穏な文献は、誇らしい記憶から忌わしい記憶となった。
よって、A村の神社へこっそりと隠されたのである。
この文献は中世史を語る上でも重要な文献らしく(つまり農民=弱者というマルクス主義史観を覆すと言う意味で)、地方紙ではニュースになったし、大学から大勢の学者が来た。
その内容から一部要約して抜粋すると以下の通り。
「A村とB村が××川の水利権を巡り争った。
A村が奇襲をかけることにより、戦に勝ち権利を治めた。
A村の戦での被害は軽微であり、軽傷者5名。
B村の物を16名打倒した。また戦の巻き添えに女2名、子供1名が死んだ。
計19名の内には、B村庄屋であり××神社宮司を務める●●家当主、宗衛門義直を含む」
十九地蔵が呪うと言うのは、じいさんの勘違いだった。十九地蔵はこの時の死者を弔うためにB村で建てられたものだった。
けれども地蔵にさえ癒し得ない、抑えきれないほどの深い深いA村への恨みが、まだこの地には残っていたのである。